アホヲタ元法学部生の日常

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エマと公法私法二元論

エマ (1) (Beam comix)

エマ (1) (Beam comix)

 公法・私法二元論とは、国家(行政)と私人の間の関係は、根本的に性質の異なる関係であり、民事法とは別個の法によって規律されるという観念である。要するに、「国家vs私人」について書いた法律(公法)と「私人vs私人」について書いた法律(私法)ってのは全然別の体系が組まれているということである。

 この区別基準としては、権力説が通説的*1である。「私人と私人は法の下の平等により対等な関係だが、国家は統治権を持ち国民に支配服従を要求できる権力を持っている」というものである。つまり、私法は対等な当事者間の関係を規律する者であり公法は権力関係を規律するというように、権力によって公法と私法は区別される。

 旧憲法下、私人間の関係を規律する民刑事を扱う司法裁判所と国家の行政関係の間についての裁判を行う行政裁判所が並立していた。公法関係の事件は、行政裁判所のみが扱い、私法関係の事件は、司法裁判所のみが扱っていた。このように、戦前には、公法・私法二元論は、制度的な裏付けのある概念であった。

 ところが、第二次世界大戦後、憲法76条が最高裁判所裁判権を一元化してしまった。その上、特別裁判所の設置は禁止され、行政機関の終審としての裁判も禁止された。これで、完全に行政裁判所の存在が否定されたのだ。

 実際、戦後においては、

公法・私法二元論から演繹的に導ける問題はないし、そのように演繹的に導くべきでもない。それは、①公法の独自性を主張しすぎ、私法の原則から離れ、変な帰結が導かれる危険があり、②国等の行為が「私法関係」だからといって自由にしていいというのはおかしい*2からである。

このように言われた。まさに、公法・私法二元論は崩壊したのだ。


 ところが、戦前の遺産がある。これが、行政訴訟である。そう、裁判所は一緒でも、手続きは違うのだ。しかも、4条には、重要なことが書いている。

4条
この法律において当事者訴訟とは当事者間の法律関係を確認し…公法上の法律関係を確認するものをいう

 このような規定が置かれたのは簡単である。立法者が当時、公法・私法二元論を前提に立法したからである。

 あれ、と思われた方はセンスがある。そう、戦後にできたはずの行政事件訴訟法は、公法・私法二元論を前提としているのだ。これはどういうことだろう。これは、田中二郎の見解を前提とすると分かりやすい。


 田中二郎は、戦後もなお、行政と私人の関係を3分類した。権力関係、管理関係、私経済関係である。

 権力関係は、例えば、伝染病患者を隔離するといった、公権力の主体たる国・地方公共団体が法律上優越的な意思の主体として私人に対する関係をいう。これは、まさに私法と公法の典型的な違いであり、公法関係だという。
 管理関係は、例えば、国が公共の福祉のために事業を行うといった場合*3である。この場合、私法が対等な私人相互間の利益調整を目的としているのに対し、管理関係は、公共の福祉の実現を第一の目的とする点、通常の私法関係と異なる。そこで、一応公法関係である。しかし、行っている事務それ自体の性質を見ると私人相互間の関係と異ならない。そこで、特殊な取り扱いを欲するならば①実定法上の根拠があるか②純然たる私経済活動と区別されるべき公共性が存在することを立証しなければならず、この立証が成立しなければ私法が適用されるとした。
最後の、私経済的関係は、大学の会議で、業者から弁当を仕入れるといったもので、これは、私立大学がやるのと同じであるから、私法関係である。


 こう考えると、日本国憲法下でも、公法・私法二元論は生き残るのである。
つまり、行政裁判所はなくなったとしても、行政事件訴訟法という異なる規律を設ける。その上で、支配関係については抗告訴訟(3条)という類型を設け、これで扱うことにする。そして、管理関係については公法上の当事者訴訟(4条)という類型を設けこれで扱うことにする。私法関係は民事訴訟法で規律する。こうすれば、公法・私法二元論が、実定法的に、日本国憲法下でも維持しうるのだ。

 もちろん、公法・私法二元論を否定する論者からは、公法私法二元論がない目でみても、この条文は読めるという批判がある。例えば、先ほど挙げた4条については、

これは審理の在り方をみると民事訴訟と代わらないので、無意味な訴訟類型である

といわれている。要するに、「当事者訴訟」だとかいっても、どうせ民事訴訟とおんなじことをやるのであって、わざわざ「行政訴訟」という意味がない。無意味だから、仮に「公法」と条文に書いていても黙殺していいんだ! と主張するのだ。


 ところが、近時(2004年)の行政訴訟法改正は、この議論に新たな一石を投じた。
 その4条に「公法上の法律関係に関する確認の訴えその他の」公法上の法律関係に関する訴訟というのが付け加わったのだ。もし、「公法上の当事者訴訟は民事訴訟と同じ」ならば、確認訴訟ができることは自明であり、こんなことをわざわざ書く必要はない。それなのに、わざわざ4条で書いたのは、なお「当事者訴訟」は「民事訴訟」と異なることが前提となる。やはり、当事者訴訟は、民事訴訟と異なる重要な訴訟類型であり、「民事訴訟と同じで無意味」という批判は、法解釈としておかしいのである。
 これにより、少なくとも公法私法一元論者は動揺し、公法私法二元論者は凱歌を挙げた。


 まあ、異論はあるが、以下は説明の便宜のため改正法により、公法・私法二元論が息を吹き返したということにしよう。

 ここで、公法・私法二元論、特に、公法と私法を区別する基準たる「権力説」には問題があると、昔から批判されてきた。それは、当時の旧民法下、家長制度があったので、家長の独特の権力を考えると私人間にも「権力関係」はあるのではないかという批判である。これに対しては、穂積八束博士は、権力説をつきつめて「親族法は公法である」と主張された。国家と私人の間だけではなく、私人と私人の間でも、権力性がある限り公法だというのである。あの穂積教授の主張であるから間違っている訳がない。以下、私人間でも公法関係が存在することを前提として論じる。


 さて、メイドとご主人様の関係を考えてみよう。
 http://maidken.hp.infoseek.co.jp/様による論考を引用する。

関係における上下関係のもうひとつの側面として、メイドの主人に対する仕従がある。メイドは主人に「仕える」といわれるが、これはまさに、メイドの仕従的な地位を言ったものといえよう。仕従ということの意味を簡潔に検討するならば、メイドが主人に従うこと、主人の諸々の指示や要望を基本的には受忍して応えるべき地位にあること、メイドと主人の意思の拮抗にあってメイドが一段下手になること、などといえるであろう。ともかく、メイド関係においてメイドが主人よりも基本的には下位にあることが肝要であって、それを「仕従」という単語でいうのは、言葉の問題である。
引用元:http://maidken.hp.infoseek.co.jp/sasagawa/2-4.html

 私は気付いた。御主人様とメイドの関係は公法関係だということを。仕従関係を御主人様の方に引きなおせば支配関係である。そう、権力性の基準からは、明らかに公法関係なのだ。例えば、メイドが御主人様を寝取ったら、おかみさんは、民事訴訟でメイドを訴えることはできない(宝塚パチンコ事件*4参照)。逆に、メイドが御主人様に殴られても、民事訴訟で御主人様を訴えるなんてことはできない。国家賠償法に基づく請求が考えられるが、1条で「国又は公共団体の」と、主体の限定があるので、これも無理である。また、「今日は○○しなさい」という不当な御主人様の命令に対しては、抗告訴訟(典型的には取消訴訟)で争う余地があるが、行政事件訴訟法3条は「行政庁の」とある以上、主体が異なるので、これも無理だろう。

 エマのようなメイドであれば、主人との間の相克はないだろう。せいぜい、メガネの度があわなくて、ガラスを割ってしまうという過失の場合位であろう。
 しかし、メイドカフェ全盛の現在、酷使されるメイドや、増長したメイドもいるだろう。それなのに、現実には、その是正を訴訟で実現できない。これは、法(正確には手続法)の欠缺というゆゆしき事態である*5

 行政事件訴訟法ならぬ、メイド・主人関係手続法の早期成立を!

まとめ
メイドと御主人様の関係は、公法関係である。新行政事件訴訟法で、公法・私法二元論が復活した結果、遺憾にもメイド・御主人様関係における訴訟法的救済の余地がなくなってしまった。
メイド・御主人様関係における手続を定めた立法の早期成立が望まれる。

*1:田中二郎もこの見解をとった。

*2:安く売ればいい訳ではない。安いと国は損して、増税になる可能性がある。逆に高いとバブルをあおる可能性もある

*3:国・地方公共団体が公共の福祉のために公の事業あるいは財産の管理主体として私人に対する関係

*4:太田匡彦 「民事手続による執行」『行政法の争点』

*5:なお、「権力があるなら、その権力で、自力救済せよ」という反論もあるだろうが、メイド喫茶における御主人様が自力救済できないことは明らかである