アホヲタ元法学部生の日常

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戦前の判決に「天皇の名において」と書かれてない理由

書籍名:日本異色裁判故事誌
著者名:山本石樹
印刷者:第一法規出版株式会社
発行日:昭和56年10月10日

 大日本帝国憲法第五十七条1項は司法権天皇ノ名ニ於テ法律ニ依リ裁判所之ヲ行フと規定する。戦前の裁判所が天皇の名において裁判をしていたという話は、公民等で聞いたことがある人も多いと思われる。
 ところが、戦前の裁判所の判決を見ても、「天皇の名において」と書かれていない。例えば、宇奈月温泉事件(民集*114巻1965頁)という有名*2な判決においても

事實*3
上告人(控訴人、原告)請求ノ要旨ハ...(中略)
権利ノ濫用ナル旨抗弁シタリ
原審ハ本訴ノ請求ハ権利ノ濫用二基ヅクモノナリトシ之ヲ排斥シタリ
主文
本件ノ上告ハ之ヲ棄却ス
上告費用ハ之ヲ上告人ノ負擔トス
理由
上告理由第一點ハ一、上告人ハ富山縣下新川郡内山村字大尾六一五六番三畝二十二歩ヲ所有スル処被上告人ハ何等對抗シ得ヘキ權利ヲ有ルコトナクシテ土地内ニ引湯管ヲ敷設シ該土地ニ縷立入ル(中略)
原判決ニハ何等所論ノ如キ違法アリト云フヲ得サルヲ以テ論旨ハ總テ採容シ難シ
仍テ民亊訴訟法第三百九十六條第三百八十四條第八十九條ニ則リ主文ノ如ク判決ス 
昭和十年十月五日
大審院第三民亊部
http://www.sekidou.com/articles/cases/pdfs/ds101005.pdfより引用

 どこにも「天皇ノ名ニ於テ」とは書いていない。

 この謎は、長らく解けなかったが、最近、「日本異色裁判故事誌」という本を読んでいたら、この疑問は氷解した*4

茲(ここ)に於いてか、明治廿三(23)年十一月十五日、司法省総第九〇号訓令が発せられ、
「民事刑事の判決書言渡しの様式を定め回付すべきも期日迄に到達せざる向は正本には従来の用紙に天皇の名に於ての文字を記入し(御紋章は記するに及ばず)たるものを使用すべき(原文漢字カナ交じり)」
とあった。
山本石樹「日本異色裁判故事誌」p34〜引用

 要するに、天皇ノ名ニ於テ」の大文字&菊花御紋章付の裁判言渡書が作られ、判決はこの紙を使って行う。ただし、この紙が全国の裁判所にいきわたるまでは、普通の判決用紙に「天皇ノ名ニ於テ」と書いて代用しなさいという通達が発せられたということである。

そう、明治23年12月頃の一時期においては、このような、天皇ノ名ニ於テ」と書かれた判決が下されていたのである。

 ところが、判決を下すのは神(=天皇)ではなく人たる裁判官である。そこで、誤判を下すこともあるし、上訴や再審の途も開かれている。それにも関わらず「天皇の名において」判決するというのは、いかにもおかしいではないか。こう考えたのが、時の司法大臣(今でいう法務大臣山田顕義。そこで、翌明治24年2月26日に前記訓令を撤回したのである。だから、昭和10年の判決書である「宇奈月温泉事件判決」には、「天皇の名において」とかかれていなかったのである。

まとめ
 明治時代の人も、裁判官は誤ちを犯すものであることを知っていた。
 当時は天皇=神=絶対に過ちを犯さないという発想が常識であったので、
 「過ちを犯す裁判官による判決に「天皇の名において」と書くのは何事だ!」
 という思考回路で「天皇の名において」という文句が判決書から削除された。
 これが、戦前の判決に「天皇の名において」と書かれてない理由である。

*1:大審院民事判例集のこと。最高裁判所民事判例集ではない。

*2:昔、民法の答練で変なことを書いたら「宇奈月温泉事件からやり直して下さい」と言われたことがありました...。

*3:事実

*4:ちなみに、この本は元少年審判所所長である著者が日本書紀の時代からの日本の裁判史を史料で読み解いている力作。ただ、漢字カナ交じり文ばかりで読みにくいのが難点。