今再び注目を浴びる団藤博士
- 作者: 団藤重光
- 出版社/メーカー: 創文社
- 発売日: 1990/06
- メディア: 単行本
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団藤博士の「刑法綱要」は、人格形成責任*1から、責任論のみならず、行為論・不作為犯の処罰論*2まで一貫して論じられている名著である。
もっとも、現在では、団藤説は学説上は「旧通説」*3と言われたりしており、これを支持する若い学者が減少していることは否定できない。
しかし、最近、裁判員制度の導入により、団藤博士が再度脚光を浴びている。
団藤博士は、死刑廃止論者として有名である*4。しかし、最高裁裁判官として死刑判決を何度も言い渡している*5。これは団藤博士によると矛盾ではない。
裁判官は、良心に従って独立してその職権を行う(憲法76条3項)。この「良心」は、単なる主観的な主義・主張ではない。
裁判官の良心は、客観的法の実現という要請との関係で、基本的人権として保障される個人の良心を中核としながらも、多少の変容を受ける(中略)
裁判官的良心は、国家機構としての司法部の一員として司法過程に活動するところの良心であり、裁判官としての職責を果たすという立場から良心の声をきくのである。ところが法学者の良心にはこうした制約は全然存在しない。国家や法を否定することも、法学者としての立場とすこしも矛盾するものではない。(中略)
裁判官的良心(正しい裁判をするという良心)と法学者的良心(正しい法学説を立てるという良心)とのちがいは、ほかにも多くを追加しうるのである。したがって、また、法学者が裁判官になったばあい、あるいは裁判官が法学者になった場合に、同一人であろうとも、見解に相違が出てくる可能性があるのは当然であって、そのことは本人の良心の弱さを物語るものではなく、むしろ良心の強さと鋭さを示すものにほかならない
「刑法綱要」p4
この点は、憲法学者も論じているところであるが、裁判は厳正かつ公正に行わなければならないのであるから、裁判官個人の主観的な良心はむしろ制約されなければならない*6のである。
そして、この点は、これまでは事実上憲法学者と裁判官のみが考えていればよい問題だったが、裁判員制度導入によって、大きくスポットライトを浴びるようになった*7。例えば、判例タイムズ1146号の座談会では、裁判員の良心が話題となった際に、団藤先生の話が出ている。
裁判官の良心というものは、裁判官の良心とは分けて考えるべきなんだ、個人の良心と裁判官の職務と行う場合の良心は違うんだということが言われまして、団藤先生のご著書やご論文にもその点が詳しく論じられています。
判例タイムズ1146号p12(2004.6.1)
裁判員の良心とは何かを考える上で、団藤博士が再び注目を浴びているのである。
まとめ
団藤博士が30年前に切実な問題として論じた「裁判官としての良心」の問題は、裁判員制度の導入により、「裁判員としての良心」問題という形で再びスポットライトを浴びるようになった。
自分で「絶対にこいつがやった」と思っても、「合理的疑いを入れない」程度の証明がなされていなければ無罪なのが刑事裁判である*8。このような個人的良心と裁判員としての良心の違いを裁判員の人には単に頭で分かってもらうのみならず、実際の判断の場面できちんと裁判員としての良心に従ってもらわなければならない。裁判員制度導入の上での一つの大問題であるこの問題を、団藤博士は30年前に見抜いていらっしゃったのである。
*1:「犯罪行為は、その背後に行為者の潜在的な人格体系を予想する」「われわれの人格はある程度までは、自分じしんの主体的な努力によって形成していくことのできるものである。だから、」「行為者が性格学的な人格に対して主体的ななにかをすることができた範囲で、人格形成における人格態度に対して行為者に非難を加えることができるのである。」(「刑法綱要」p240、以下ページ数だけのものは同著。)
*2:p135では、「不作為によって故意の作為犯が成立するためには、作為による場合とちがって、行為者に構成要件的事実の発生に向けられたところの、とくに積極的人格態度が当の不作為の裏づけになっていなければならない。」として、大判昭和13年3月11日刑集17巻237頁の「既発の危険を利用する意思」を要求する判例を評価している。
*4:
*5:最第一小法廷判昭和51年4月1日等、なお「もっと深刻な疑問は実務的見地から出て来る。裁判官が実務的にいだく最大の悩みは事実認定との関係であろう(わたくし自身もいくつかの死刑事件を扱ってー最高裁判所では事実問題は書面審理による単なる職権調査事項にすぎないのにかかわらずーいくたび眠れぬ夜をすごしたかわからない)。一般の刑事事件ならば証拠によって「合理的な疑いを超える」程度の心証が得られれば有罪の認定をするのであるが、死刑事件では一抹の不安でもあるときは、「合理的な疑いを超えて」いても用意に有罪を言い渡すことができるものではない。もし有罪ならば情状として死刑以外にない事案で、しかも、事実認定上に一抹の不安がないといえないときは、裁判官は、死刑か無罪かというディレンマに追い込まれるのである。」p457
*7:なお、小林充、上村立郎編「刑事事実認定重要判決50選」p3の「裁判員も「裁判員」としての良心に基づいて判断する必要がある。判例、学説等も踏まえた上での自らの見解に基づいた判断を行う必要があり、単なる個人的な意見、感情等に基づいて判断することは許されない。勿論、職業裁判官等裁判所側からそういった判断に必要な情報の紹介・解説等は十分に行われるにしても、前記のような立場の違いを、どのようにしたら正しく裁判員に理解して貰えるかが、今後の課題の1つといえよう。」参照
*8:なお、木谷明「刑事裁判の心」p35では元裁判官の著者に対する「木谷さんが無罪を言い渡された事件で、本当は被告人がやっているかもしれないと思ったことはどれほどありますか。またやっているかもしれないと思えた場合に、一人の人間としてどのように気持ちの整理をつけていったのですか。」との質問に対し「刑事裁判の事実認定は、あくまで、検察官が合理的な疑いを容れない程度の証拠を提出したかどうかを判定する佐合だと割り切って考えていましたし、今でもそう考えています。ですから、私は、証拠は薄いが本当は被告人が真犯人ではないのかというような次元の問題で裁判官が悩む必要はないし、またそのようなことで裁判官が頭を悩ましてはいけないのだと割り切っております。」と答えている。