アホヲタ元法学部生の日常

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『赤朽葉家の伝説』とダイイングメッセージの信用性

赤朽葉家の伝説

赤朽葉家の伝説

※本エントリは『赤朽葉家の伝説』のネタバレを含みます。
1.はじめに

 刑事訴訟法の業界に「臨終供述(Dying Declaration)」という専門用語がある。一般に「ダイイングメッセージ」と言われるこの臨終供述は、一般に高度の信用性があるとされている。しかし、これは本当なのだろうか、どのような点に注意して臨終供述を扱うべきだろうか。この点について、第60回日本推理作家協会賞長編及び連作短編部門受賞作である『赤朽葉家の伝説』の事例を使いながら考察していきたい。

2.特信情況と臨終供述
 刑事訴訟法学会においては、臨終供述は類型的に高度の信用性があるとされている*1

江家義男博士は、信用性の情況的保障の態様として(引用者注:以下の情況にあてはまる場合は類型的に高度の信用性があるといえるとした)、以下の基準を抽出された(江家・基礎理論74頁以下)。すなわち、(1)現在(供述の時)の精神的又は身体的苦痛に関する事件直後の供述、例えば、傷害の被害者が傷害を受けた直後に身体の苦痛を他人に告げた場合、(2)現在(供述の時)の計画、動機、感情などの事件発生前における自然な供述、(3)事件に関係ある客観的事実の事件中又は事件直後における衝動的供述、例えば、殺人の現場を目撃した者が即座に「あっ、AがBを殺した」と叫んだ場合とか、「殺して逃げた奴は黒い帽子の男だ」と叫んだ場合、(4)いわゆる臨終の供述、例えば殺人事件の被害者が死に直面し、死の免れ得ないことを自覚しつつ、事件の経過についてした供述、(5)公文書及び業務文書、(6)自己の利益に反する事実を供述した場合、等を基準として提示され、(1)ないし(3)の場合については供述の自然性、(4)の場合について供述の良心性、(5)の場合について供述の公示性、(6)の場合について供述の不利益性が、それぞれ類型的に把握される旨指摘された。
藤永幸治河上和雄山善房編「大コンメンタール刑事訴訟法5巻1」p267

 要するに、死に際して全ての利害を超越したものがうそを言うわけがないということで、類型的に高度に信用できるとされている。

 例えば、事故により瀕死の状態にある被害者が「やられたやられた、小森小森」と発言した供述についてこの情況を考えれば「犯人が小森だ」と述べる内容は特に信用できるとされた判決*2がある。

 また、ミステリにおいても、ダイイングメッセージを解読した探偵はダイイングメッセージにその名が書かれた人が犯人だという前提に立って、これを裏付ける証拠を探し始めることが少なくない。

 しかし、この「ダイイングメッセージ神話」はそこまで確固たるものなのだろうか?


3.『赤朽葉家の伝説』に見る臨終供述の信用性
 『赤朽葉家の伝説』第三部「殺人者」は、語り手の瞳子が、祖母万葉の「私は人を一人殺した」という臨終供述を元に、なぜ、誰を、どうやって殺したのか?という謎を探っていく話である。しかし、万葉の主観として「人を殺した」ことに間違いはないものの、臨終供述は客観的事実には合致していなかった*3
 その理由は、臨終供述はその時の記憶に従った真摯な供述であるという点において信用性があるだけで、臨終時の記憶形成過程の問題点は他の供述と変わらず存在するからである*4


 人は死に際し、打算等がなくなり、「最後に本当のことを話したい」と思うようになる。これは経験則上明らかといってもいいだろう。
 しかし、その「本当のこと」というのはあくまでもその人が本当だと思っていることに過ぎない。見間違える記憶違いをする自分独特の表現をするといったことは誰でもあることであり、記憶が客観的には間違っている場合でも、主観的にそれが「本当のこと」だと思っている限りは、臨終の際に「その間違った内容」通り真摯に供述することは十分ありえるのである。
 
 『赤朽葉家の伝説』のエピソードは、*5臨終供述にひそむこの危険性を指摘するエピソードとしても秀逸といえよう。


4.「臨終供述」の信用性を否定した大阪高判平成5年5月8日
 このような「臨終供述」の信用性について詳しく吟味した判決に大阪高判平成5年5月8日判例タイムス837号p279がある。事案としては以下のようなものである。

A女とV男は昔はつきあっていたが、V男はA女を振り、その後A女がV男に嫌がらせをしていた。ある日、V男の家が寝具等に灯油がふりかけられて家事になり、真っ黒こげになったV男が発見された。V男は救急車で病院に運ばれ、うなずきや手話によって「寝ていたら、A女が火のついた紙をかぶせて放火したのを見た。」と供述したため、A女は逮捕された。V男は数週間後に死んだ。公判でA女は否認した。

この事案において、裁判所はV男の供述は信用できないとしてA女を無罪とした。客観的事実と内容が齟齬することが最大の理由である。
 まず、鑑定によると、灯油をまいて火をつけると点火から30秒間は火の勢いは弱いが、それを過ぎると急激に燃え出すと認定した。その上で、

仮に被害者(引用注:V男)の供述が真実であるとした場合、被害者は身体に引火するまで気付かず熟睡中であったため逃げ遅れ、その時に被告人(引用注:A女)を見たか、それよりも早期に気付いて被告人を目撃したが消火または逮捕に手間取り結局逃げ遅れたと考えるのが合理的である。
判例タイムズ837号p282

とした。そして、逮捕や消火活動の形跡はないので、熟睡していたため急激に火が燃え出してから初めてA女の存在に気付いたことになるとした。
 ところが、急激に火が燃え出すような自己の脱出が危険になるまでA女がずっとV男宅にいるのはおかしいA女の事件当日の服には全く煤等がついていないのはおかしい等と指摘し、V男の供述は信用できない、日頃A子から恨まれていることを気にしていたため、寝覚めの瞬間でもあり放火と被告人を直感的に結びつけ、確信したとの合理的疑いを払拭できないとしたのである*6

 この判例の結論自体の当否はともあれ、死に際して供述をしたからといって、すぐさま信用できるとせずに、「寝ぼけて見間違ったり勘違いをしたのではないか」といった疑いをもって、客観的証拠との整合性等からその疑いが払拭されるかを判断するというこの判例判断手法自体は上記の臨終供述の危険性に照らして評価すべきである。

まとめ
 刑事訴訟法学会も、またミステリー界においても、臨終供述、ダイイングメッセージは高度に信用できるという臨終供述ドグマに拘泥しているきらいがある。
 しかし、『赤朽葉家の伝説』の事例や『大阪高判平成5年5月8日』から分かるように、臨終供述だからといってその内容が常に正しいとは限らない。真摯な供述であることは状況的に担保されていても、それにいたる知覚・記憶の誤りの可能性はなお残るのである。
 今こそ、臨終供述ドグマを克服する時である。

 関連:三軒茶屋アイヨシ様の『赤朽葉家の伝説』書評

参考:はじめての伝聞法則〜刑事訴訟法321条1項3号と特信情況
 刑事訴訟法で信用性が問題となる場合は、「2人の供述が対立しているといった場合にどちらの言うことが正しいのか」といった場合と、伝聞法則の例外としての特信情況の場合がある。後者について簡単に説明したい。
 まず、刑事訴訟法321条1項3号という条文がある。非常にわかりにくいので、かいつまんで解説する。

321条1項3号 前2号に掲げる書面以外の書面については、供述者が死亡、精神若しくは身体の故障、所在不明又は国外にいるため公判準備又は公判期日において供述することができず、且つ、その供述が犯罪事実の存否の証明に欠くことができないものであるとき。但し、その供述が特に信用すべき情況の下にされたものであるときに限る。

 書面や「また聞き」の内容の証言(これらを「伝聞証拠」という*7)は、原則として証拠として裁判で使うことができない(伝聞法則、刑事訴訟法320条)。「え!書面が証拠にできないの?」と驚かれる方もいらっしゃるかと思いますが、その理由について学者の本を読むと、「伝聞証拠は知覚→記憶→表現の過程を経るところ、その過程に誤りが介入する可能性がある」という説明がされている。
 例えば、

被告人XがYを殺したというのをAが見たので、AがBに「XがYを殺した」と言い、Bが法廷で「Aが『XがYを殺した』と言っていた」と証言した

という場合を考えてみよう。この場合には、事件が起こり、これをAが見(知覚)、これを記憶して、その後Bに言う(表現)という過程がある。

事件:XがYを殺す
知覚:事件をAが見て知る
記憶:事件の内容をAが記憶する
表現:AがBに「XがYを殺した」と言う

 しかし、Aが見間違える(知覚の誤り)、Bに話す頃には記憶があいまいになっている(記憶の誤り)、Aが故意ないし言い間違い等で間違って表現する(表現の誤り)可能性がある。だからこそ、被告人Xとしてはこのような誤りがないかをAを法廷に呼んで反対尋問をしてチェックする憲法上の権利があり*8、そのために、書面や又聞きの供述は原則として証拠になれない(これを専門用語で証拠能力がないという)。
 とはいえ、この伝聞証拠についての原則を貫くと、いろんな不合理なことが起こる*9。そこで、伝聞証拠(書面やまた聞きの証拠)を使う必要性があり、かつ、誤りがほとんどないといえる場合、即ち信用性のある場合には証拠にできる、証拠能力が認められる
 このことを規定したのが321条で、上で述べた321条1項3号は一般の書面(1、2号に掲げた書面以外の書面)について、(1)供述者(上の例でいえばA)が死亡する等して供述できず、かつ(2)その供述が犯罪の証明に不可欠な場合という必要性があり、かつ(3)「特に信用すべき情況(いわゆる特信情況)の下にされたものである」という信用性がある場合に証拠能力が認められるとする*10

小さなまとめ
 伝聞証拠(書面や又聞きの証拠)はその過程に誤りが入る可能性があるので、原則として証拠にできない(証拠能力がない)。しかし、必要性と信用性がある場合には証拠にできる(証拠能力が認められる)。具体的には、321条1項3号によると(1)供述不能(2)犯罪の証明に不可欠(3)特信情況が必要である。

*1:ここにおける特信性は321条1項3号の話である。この点、詳しくは「参考」に書いた。

*2:福岡高判昭28.8.21高集6巻8号1070頁

*3:どのように合致していないのかはここでは触れない

*4:平場等「注解刑事訴訟法中巻」p717は、臨床供述が321条1項3号の特信情況を満たすという学説状況をふまえ、「本来は知覚・記憶・表現・叙述の全過程についての特信情況をさすと考えられるのであるが、現実には、表現すなわち供述の真摯性の点における特信情況に重点が置かれる傾向がある。」と指摘しており、まさにこの問題を指摘しているといえる。

*5:ストーリー自体が秀逸であるのみならず、

*6:なお、「被害直後には」「歩行もかろうじて可能であり」「回復への期待を十分有していた」から「いわゆる死期を察知した者の全ての利害を超越した真摯な供述と同等に評価することは相当でない」として、「そもそも臨死供述でない」と言っているところには注意。

*7:原供述の内容の真実性が問題となる場合辺でないといけないのですが、これを説明するのがややこしいので省略

*8:憲法37条2項「刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与へられ、又、公費で自己のために強制的手続により証人を求める権利を有する。」

*9:目撃証人が死んでしまった場合に、目撃証人の供述調書を証拠にできないと有罪の人が無罪になる等

*10:なお、伝聞供述、又聞きの供述については324条2項が321条1項3号を準用していることに注意