
- 作者: 木谷明
- 出版社/メーカー: 法律文化社
- 発売日: 2004/07/01
- メディア: 単行本
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夕暮れの図書室。僕がいつもどおり判例集に集中していると、すぐ後ろから、透き通った声が聴こえてきた。
「無罪が確定した後の手続は?」
振り向くと、ミルカさんが微笑んでいた。
控訴とか上告ってことじゃないんだよね、と、分かり切ったことを確認する。
「そりゃそうでしょ。わかんない? 刑事補償でしょ。」
ミルカさんは体を起こす。かすかに柑橘系の香りがした。
ミルカさんは講義しているような口調になる。「国家賠償請求も理論的には可能。だけど、高いハードルがある。」
トンと音がして、ミルカさんが六法を開く。国家賠償法のページだ。1条が目的規定ではないのは、昭和22年の古い法律だから。
国家賠償法第一条 国又は公共団体の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によつて違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任ずる。
「それは、国家賠償法1条1項。『故意又は過失』。」
結果的に無罪になったからといって警察官や検察官にミス(過失)があったとは限らない。しかも、無罪になった冤罪被害者側で、故意・過失を立証しなければならない。
「これに対し、刑事補償法は、無罪になったことと、もう1つの要件だけで、補償金の支払いを認める。足りない要件は?」
僕は、心の中で(未決の抑留又は拘禁)と答える。でも、声には出さない。
「未決の抑留又は拘禁。逮捕みたいな短いのが『抑留』、勾留みたいに長いのが『拘禁』。刑事補償法では、刑事訴訟法に基づく身柄拘束だけではなく、経済調査庁法に基づく身柄拘束も規定されているけど、経済調査庁法なんてもうとっくに廃止されているよね。」
ミルカさんの白い手は、六法を高速でめくっていく。手元に視線を落とすことはないのに、手が止まると、それは、刑事補償法のページだった。
刑事補償法第一条 刑事訴訟法 (昭和二十三年法律第百三十一号)による通常手続又は再審若しくは非常上告の手続において無罪の裁判を受けた者が同法 、少年法 (昭和二十三年法律第百六十八号)又は経済調査庁法(昭和二十三年法律第二百六号)によつて未決の抑留又は拘禁を受けた場合には、その者は、国に対して、抑留又は拘禁による補償を請求することができる。
「補償金は1日当たり1000円から1万2500円。かなり幅があるわね。でも、仮に1日10万円でも、100万円でも、お金では、冤罪の苦しみを癒すことはできない。」
ミルカさんは、目を瞑る。
「民法で、名誉毀損等の被害者のために認められている名誉回復制度は何?」
謝罪広告。これは、憲法でもよく問題になるから、テトラちゃんでも知っているだろう。
「そう。謝罪広告ではないけど、刑事補償法では、刑事補償決定の公示制度がある。」
刑事補償法による補償決定の公示
○○△△に対する●●被告事件につき平成×年×月×日言渡しの無罪判決が確定したので、平成×年×月×日次のとおり拘留拘禁による補償決定をした。
●●地方裁判所
こういう公示を、官報と新聞に無料で掲載してもらえる。
「刑事補償決定をするのは、無罪判決を下した裁判所だから、この場合は地裁の無罪判決が確定した訳ね。」
こういう細かいところも気にするのがミルカさんらしい。
「殺人等の重大事件では、検察も簡単には諦めないから、地裁・高裁・最高裁と時間をかけて審理することが多い。有罪が確定してから再審で逆転無罪という事件も多い。その場合の冤罪被害者の被害の程度は大きいから、あえて国家賠償を求めることもあるわね。」
要件が厳しい国家賠償をわざわざ? ちょっとピンとこなかった。
「もらえるお金が高額になるからというよりも、むしろ真相解明のためということが多いわ。国家賠償事件における裁判所の判断手続は?」
たしか、行政法で、「最判」という国家賠償法の事案を習ったから...。
「そう、最判というのは、『最高裁判決』という意味。民事訴訟法の『判決』手続で裁判をする。これに対し、刑事補償は『決定』。そうすると?」
ミルカさんは、もう答えがわかったわねという顔をしているが、分からないので、微苦笑で返す。
「国家賠償法だと、口頭弁論が必要になるってこと。」
民事訴訟法第八十七条 当事者は、訴訟について、裁判所において口頭弁論をしなければならない。ただし、決定で完結すべき事件については、裁判所が、口頭弁論をすべきか否かを定める。
「『決定』で終わる刑事補償手続だと、意見は聞いてもらえるけど、公の場で、なんで自分がこのような冤罪被害者になったのかを明らかにすることはできない。民事訴訟の口頭弁論では、限界はあるけれど、証人尋問をしたりして、少しでも真相に迫ることができる。厚生労働省の村木厚子さんが国家賠償請求をしているのも、こういう理由と言われているわ。」
(村木さんは、誰もが郵便不正冤罪事件ということで知っているけれど、労働省への入省前日に、省を挙げて「村木さんにお茶汲みをさせるか」という議論がなされ、「お茶汲みをさせる」という結論に達したといった、男女雇用機会均等法施行前の霞が関の実態が分かるエピソードを持っていることは意外と知られていない)と、ちょっと脱線したことを考えていると、それを見抜いたのか、ミルカさんは、いつもよりもっと真面目な顔になる。
「でも。」
「冤罪ということが確定して、刑事補償や国家賠償がされても、失われた人生は返ってこない。特に、元のコミュニティに戻って平穏な生活をするのは現実には極めて困難」
「例えば、鹿児島夫婦殺し事件。昭和44年に小さな町で夫婦が殺された。閉鎖的なコミュニティに、捜査官が多く入って、聞き込み捜査等を行う。それ自体は正当な捜査活動だけど、
町民みんなが、この事件に強い関心を持って、犯人逮捕はまだかと期待する。3ヶ月後、被害者の知人が、別件逮捕の上、長期間の身柄拘束の上、自白させられる。町中みんなが被告人の顔と名前を知っていて、「二人を殺した犯人」と思い込む。一審、控訴審で有罪判決。被告人への偏見は頂点に達する。
その後、最高裁で、証拠のすり替え疑惑を含む捜査の多くの問題点が指摘されて高裁に差し戻され*1、無罪が確定する。国賠訴訟を起こして警察官や検察官の違法行為を追求し、裁判所も違法行為を認める。そして、また、社会生活を始めようとする...。」
ミルカさんの口調で、その後の展開が予想がついてしまった。
ミルカさんが重い口を開く。
「自宅が原因不明の火災で燃え、死亡してしまったわ。放火とも言われている。*2」
「逮捕、起訴、有罪と、段階が進むに連れて、社会は被告人と犯人を同一視して、悪い人というイメージを持つ。いわば、悪人という『ラベル』が貼りつけられる。単に最終的に無罪が確定すれば良いということではない。検察官は、無罪の人を司法手続きに載せることが、どれだけ社会に復帰して元の生活を取り戻すことを困難にするかを理解した上で、刑事訴訟法を解釈・適用していくべきだわ。そして、裁判官は、『無辜を絶対に処罰してはいけない』という観点から、推定無罪原則*3に則って判決をし、早期に無辜を解放する必要がある。そして...。」
あれ、これは検察官と裁判官の問題ではないの? 弁護士は被疑者・被告人の権利を守るのが当然ってことじゃ?
「弁護士にとっても、これは、重大な問題よ。氷見事件といって、富山県で強姦罪で有罪となって服役した人について、後で真犯人が現れて冤罪が発覚した事件があるけれど、国選弁護人の弁護活動に問題があったのではないかと言われている。日弁連の報告書でも、弁護人が被告人と十分にコミュニケーションを取らなかったことが指摘されているわ。法曹三者の一人でも意識が不十分だと、一人の人生を狂わせ、取り返しのつかないことになる。法律家っていうのは、重い仕事よ。」
最後のフレーズは、まるで自分自身に言い聞かせているかのようだった。
「お互いに問題意識を共有しながら、法曹三者が手を取り合って解決に向けて進んでいかないといけない問題ね。」
ミルカさんの声を聞きながら、僕は、別のことを考えていた。男の子と二人の女の子。その3人が、手をとりあって前に進めたら、どんな素敵なことが起こるんだろう。
でも、もちろん、僕は何も言わず、黙ってミルカさんの話を聞いていた。
まとめ
これは法学少女の第1話ということではなく、思いついたものを試しに書いてみました。
全体的に
木谷明著「刑事裁判の心」を参考にさせていただきました。
インスパイア元はもちろん
ミルカさん
です。駄文にお付き合いいただき、どうもありがとうございました。