- 作者: Arthur Golden
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- 発売日: 2005/12/01
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私が憲法*1が好きなのは、その原理たる立憲主義が好きだからである。
人にとって(中略)根底的な価値観は、きわめて大切なものである。これは各自の人生の意味を決める。これこそ正しい価値観だと思えば、それは自分にとって正しいだけではなく、人一般にとって正しいと考えるのが、人の自然の傾向であろう。異なる価値観を持っている人がいれば、そうした人に抑圧や強制を加えてでも、「正しい」価値観へと立ち直らせるのが「正しい」人のつとめだというのが自然な思考のおもむくところである。
長谷部泰男著「憲法と平和を問い直す」p53
ところが、人々の価値観に、どれが「正しい」、どれが「間違っている」というのはない(それぞれの価値観はいずれかが他方より優れていると言えないという意味で「比較」不能である)。
人々の抱く価値観の対立が、社会生活の枠組みを設定する政治の舞台に入り込まないようにする必要がある。
長谷部泰男著「憲法と平和を問い直す」p59
そこで、公私を区別し、「公」の場には、このような価値観の対立が入らないようにすることで、異なる価値観を共存させる、これが立憲主義である。
このような立憲主義の力を実感するのは、価値観の違い、相違を感じる時である。典型的には、ある行為が、一つの価値観からは「許されざるテロ」と考えられ、他方の価値観からは「ジハードの一環(としてやむをえない)」と考えられるといった場合であろう。もっとも、日本社会においては、「対立する価値観」を実感することは比較的少ない。そこで、立憲主義のすばらしさを感じない人の方が多いかもしれない。
2.「耳をすませば」に見る比較不能な価値の迷路
しかし、例えば「ある作品の捉え方」という面一つを問っても、価値観の相違に驚かされるのである。例えば、「耳をすませば」という作品がある。
この作品については「無垢な少女雫とツンデレな少年聖司の純愛物語」として考えるのが通説的見解であろう。こう解さなければ、ラストの「結婚しよう!」の感動も半減である*2。ところが、これを全く逆に考える解釈もある。
●番外篇:天沢聖司にツッコミを入れるにおいては、聖司を、計算ずくのプレイボーイとして捉える。すると、物語が、全く逆になる。
やい、聖司君、キミはタテマエとホンネの差が大きすぎるぞ。大体、はじめからそうだった。偶然を装ったって、キミの思惑が渦巻いていたことはミエミエだ。本当に考えていたことを正直に吐きたまえ。
最初の遭遇。聖司、図書館で雫に気付く。
かわいい娘やなー。むっちゃオレの好みじゃん。名前、知りてーな。
彼女の名前を探るべく、図書カードをまさぐった。図書カードの記録から、彼女の名前が月島雫であると分かる。
雫ちゃんゆうんか。ええ名前やないけ。ますます気に入ってもうたわ。雫ちゃん、彼氏おるんかな。いやいや、中学生にもなってメルヘン童話読むくらいやから、ぜってぇ彼氏なんかいねーだろうな。よっしゃ、この娘、オレがモノにしちゃろう。
彼女が読みそうな物語の本を片っ端から借りて、図書カードに自分の名前を書きまくった。(既に雫が読んでしまった本は、もはや借りる意味がないんだろうな。キミにとっては。)
引用元:http://www.asahi-net.or.jp/%7Ehn7y-mur/mimisuma/mimilink07link1.htm#book1
ちょっと違う価値観のフィルターを通して見ると、純愛作品が、プレイボーイの魔の手に落ちた、かわいそうな少女の物語に変貌するのである。
なお、http://coffeewriter.com/text137.htmlは、「聖司=ストーカー少年」として耳をすませばを読む興味深い先行研究である。
3.「SAYURI」に見る比較不能な価値の迷路
最近見た映画にもこのような作品があった。これが「SAYURI」である。
話の内容は以下のようなものである。親に売られたさゆりは、ある日優しい「会長さん」に出会い、恋をする。「芸者になれば、会長さんに会える。」この一心で、芸者への道を突き進んださゆりは、運命に翻弄されながらも、最後には立派な芸者となり、会長との恋が実るというハッピーエンド*3である。
この作品を見ていると、会長は優しく(ex.べそをかいている少女にかき氷をおごる等)義理堅く(ex.「恩人の延さん」がさゆりに好意を抱いているので、延さんの手前、さゆりへの愛情を表に出さない)、一途(いちず)(ex.さゆりのことをずっと覚えていて、豆葉にさゆりを妹にさせる等、さゆりをサポートし続ける)な人のように思えてくる。だからこそ、ラストシーンでさゆりと会長の恋が成就したとき、観客は感動するのだろう。
しかし、会長って、そんなにいい人か? 会長は本当に優しく、義理堅く、一途なのだろうか?
ここで、重要なのは、橋で泣いていたさゆりに、会長がかき氷をおごるエピソードである。ここで
僕の息子もこれ(かき氷)が好きでね。
と会長は言っている。ということは、会長は結婚して息子がいるのである。
本当に、会長が「優しく、義理堅く、一途」ならば、芸者遊びをしてないで奥さんを愛すべきではないか。
しかも、さゆりに惚れたのは、さゆりが9歳の時である。いっぱしのロリコンである。
たぶん、会長の家の人から見れば会長は、「芸者遊びに明け暮れ、妻には目もくれない、ロリコン親父」という最悪の評価を下されているだろう*5。
まとめ
日本での日常生活においては、比較不能な価値の迷路という状況を実感することは少ないようにも思える。
しかし、ちょっと違う観点から、ある作品を見てみるだけで、価値観の相違と、その帰結の違いのすさまじさを感じることができる。
そう、このような比較不能な価値の迷路の中での人々の共存を実現させるのが立憲主義である。
「SAYURI」は、立憲主義のすばらしさを感じさせてくれる、よい映画であった。