- 作者: 小林章夫
- 出版社/メーカー: 洋泉社
- 発売日: 2005/07/01
- メディア: 新書
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後書きにこんな一文が。
>もちろん筆者は使用人を抱えたことなどないし、今後もその予定はないけれど、聞くところによれば、東京のあるところには「メイド喫茶」「メイド居酒屋」なるものがあって、かなり繁盛しているという。メイドの制服に惹かれて集まるのだろうが、これを機会に一度覗いてみることにしよう。
…きょ、教授!?
と書かれていたのに誘われて買ったところ、非常に面白かった。大英帝国を支えた召使の実態を描き出した労作*1。
特に法律面で注目すべきは、召使が改名を強制させられたところである。
従僕は名前で呼ばれるのが原則だが、それは必ずしも自分の名前とは限らない。つまり、できるだけ呼びやすく、しかも従僕らしい名前がいいというわけで、「チャールズ」「ジェイムズ」「ジョン」「ジョン・トマス」などと呼ばれるのが普通だった。「クロード」などという名前は似つかわしくないと考えられたのだ。ちなみに、大きな邸では何人もの銃僕がいるのが普通で、この場合には一番上の従僕を「チャールズ」と呼べば、二番以下は「ジェイムズ」「ジョン」となるのが普通である。(中略)
本名が「チャールズ」なのに、それを「ジョン」に変えられて、しばらくは誰が呼ばれているのかわからないこともあったという。
小林章夫「召使達の大英帝国」p45
これは明らかな人権侵害である。人にとって名前はそのアイデンティテイのよりどころである。それなのに、雇用者=被用者の力の関係によって、無理やり名前を変えさせられることは、重大な人格権侵害なのだ。
召使(男)「はじめまして、今日からこの家で働くようになりました、清流院止水です」
メイド(女)「はじめまして、今日からこの家で働くようになりました、綾小路黄金子です」
主人「ああ。太郎と花子ね。分かった。そしたら、太郎は水を汲んできなさい。花子は寝室を掃除しなさい。」
召使・メイド「???」
日本に引きなおせば、こういう状況が起っていたのである。
召使と奴隷。その関係の違いは相手を(自分と同じ)人と見るかどうかだろう。相手の名前を「銃僕らしい方がいい」という身勝手な理由で平気で変える時、はたしてその相手を自分と同じ人と見ていると言えるのだろうか。
こう考えていると、後の方では、興味深い記述が出てくる
一九世紀になって、アメリカから帰って来た召使を雇うと、これまでのやり方ではなかなかうまくいかなくなる。しかも英語で召使いを意味する「サーヴァント」(servant)と奴隷を意味する「スレイブ」(slave)が、結局は同じような仕事をしている人間と考えられるようになり、そこから召使が主人に対して反抗的な態度を取るか、逆に卑屈過ぎる態度をとることになる。そうなると、主人のほうも彼らにどうして接していいのかわからなくなるのである。
(中略)
その結果、やたらと強圧的に使用人に接して反発を買ったり、あるいは逆に使用人のご機嫌を取るような態度が現われることになる。これが結局、使用人の質を下げる結果を招くのである。
小林章夫「召使達の大英帝国」p153
そして、最後には、育児専門使用人たるナニーや一部の執事を除けば、使用人という職種は見られなくなってしまったのである。
もちろん、その過程には、著者の小林教授が指摘されるような貴族の没落や使用人の給料の相対的増加、そしてサービス産業発達等々といった「制度」の変化の影響があっただろう。しかし、使用人が、奴隷として扱われていると思ったり、知らぬ間に主人が使用人を奴隷として扱えば、そこにひずみが生じる。そのひずみは徐々に表出し、それがついに英国召使事情を一変させたのではないか。このような当事者の「意識」の側面からの使用人事情の変化についての更なる研究が待たれる。
まとめ
召使の名前を勝手に変えることに疑問を持たない主人の意識。これが、主従制度崩壊の一因になるにせよ、ならないにせよ、人を人として扱っていないのに、それに気付かないことがある。
我々も気をつけないといけないだろう。
*1:まあ、筆者の専門分野のせいもあってか、それ以外の国のメイド事情がわからななかったのが唯一のマイナスか