正当化事由の錯誤とさよなら絶望先生
- 作者: 久米田康治
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2005/09/16
- メディア: コミック
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このさようなら絶望先生には、以下のようなシーンが出てくる。
糸色望(絶望先生)がいつものように自殺未遂をする。もちろん、本当に死ぬ気はない。ところが、本当に死のうと思っているんだと勘違いした可符香は、糸色を助けようとして首に巻きついた縄を引っ張る。これは、逆に、糸色先生の首をしめる結果となる。
まあ、お約束である。
しかし、このシーンは、刑法的には、非常に興味深い。これを元に、刑法っぽく構成すると、
X(絶望先生)は、死ぬ気がないが、首吊り自殺をするそぶりを見せた。これを見たY(可符香)は、Xが死のうとしていると思い、Xを助けようとして縄を引っ張り、逆にXの首をしめてしまった。Yの罪責を論ぜよ。
となる。
刑法208条は暴行罪を規定する。
第208条 暴行を加えた者が人を傷害するに至らなかったときは、2年以下の懲役若しくは30万円以下の罰金又は拘留若しくは科料に処する。
すると、Yは縄をひっぱるという暴行をXに加えているので、少なくとも形式的にはこの208条の規定に触れる(これを、構成要件に該当するという)*1。
しかし、Yとしては、Xを救おうとしている訳である。なんとか、Yを無罪にできないか。
ここで、刑法学は、犯罪を成立させるために3つのハードルを設けている。
構成要件・違法性・責任
である。まず、条文に書いている「これをしたら犯罪」という構成要件にあたらないといけない。その上で、違法、「悪い」行為と言えなければならない。普通は構成要件にあたれば、違法だが、例えば、構成要件に当る行為をしたのが、自分の身を守るため(正当防衛)とかであれば、これは違法、「悪い」行為ではないので、そのような場合には、犯罪が成立しない。更に、責任、その人を「非難」できないといけない。精神障害(責任無能力)等であれば、この人を「よくもやったな!」と非難できない(責任)がない。
そこで、この場合も、Yの違法性・責任が問題となる。まず、Xが本当に死のうとしたと仮定して論じる。
まず、Yの行為が正当防衛として違法ではなくなるのではないか。正当防衛・緊急避難は、「とっさの場合には、自分や他人の身(生命・身体・財産等)を守るために、実力を使っても悪いとはいえない」というものである。本来であれば、犯罪等があっても、これに対処するのは、警察等の国家権力である(自力救済の否定)。しかし、これを貫くと、緊急事態、つまり国家権力の助けがない場合に、不合理が生じる。例えば、身を守るために、暴漢にパンチを入れると逮捕されるといったことが起るのだ。そこで、正当防衛・緊急避難が規定された。
この場合、自殺の違法性について激しい議論があるが、自殺が違法なら正当防衛、違法でなければ、緊急避難となるだろう。
ところが、この議論は、「Xが本当に死のうとした」ことが前提である。実際は、Xは死ぬ振りをしているだけ。そもそも「緊急事態」ですらないのです。そこで、責任が阻却されるかが問題となります。緊急避難であれば、誤想避難・正当防衛なら、誤想防衛といわれる問題です。
この場合、多数説は、常に故意がないとする。つまり、Yは、「自分がやっているのが正当防衛・緊急避難だ!」と思っている以上、「悪いことをしている」という認識はないというのです*2。
しかし、これはおかしいのではないか?
こう考える根拠は、
可符香は、何度も絶望先生の自殺未遂を止めようとして絶望先生を殺しかけている
ことである。
可符香は、普通の人なら絶望先生が本当は死ぬ気ではないということを知りうる状況にいるな。そう、自分がやっていることが悪いんだ、緊急性がないのに、正当防衛・緊急避難をしようとしているんだということを認識する可能性はあったのである。このような場合に一律に不可罰とするのは、法秩序の弛緩を招くだろう。
そこで、自分がやっていることが悪いと分かる可能性があれば、なお責任はある。そうでない場合(違法性の意識の可能性がない場合)にはじめて無罪とすべき*3だろう。
本件においても、Yには「悪いと分かる可能性」はあるので、なお、Yは暴行罪の罪責を負う。
まとめ
誤想避難・誤想防衛については、深く考えずに事実の錯誤とする見解が多数説だが、さよなら絶望先生に出てくる事案を考えると、法律の錯誤説には十分な理由があることがわかる。
さよなら絶望先生は、刑法学の発展に寄与したのだ!