- 作者: 井上達夫
- 出版社/メーカー: 創文社
- 発売日: 1986/07
- メディア: 単行本
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こういう言葉を聞くと、正義ってうさんくせーと思ってしまう。正義という大義のために多くの人が犠牲になっていく。戦争もお互いに「自分が正義だ」といった行われる...。
これに対し、リベラリズムという言葉は、プラスのイメージがあるだろう。リベラルを標榜する知識人は多い。
リベラリズムは自由・寛容・開放性・多様性・進取等々のプラス・シンボルと結び付けられるのに対し、正義の方は束縛・独善・偏狭・狂信・迫害等々のマイナス・シンボルと結び付けられることが多い。
引用元:「共生の作法」井上達夫p194
しかし、この本は正義ってのは、リベラルととても関係が深いんだということを教えてくれる。
リベラリズムの考え方は相対主義の哲学を基礎とするといわれる。
「客観的に何が正しいかが決まる」なんていう人は、自己の価値観を絶対化し、他の異なった価値観を持つ者に対し自己の価値観を押し付けることになってしまうではないか。多様な価値観はすべて優劣の差異がないという相対主義をとえれば、他者が自分と異なる価値観を選ぶ自由を相互に承認することにあり、多様な価値観の共存が可能になる。これこそまさにリベラルな文化の発展に寄与するではないか!
こういう言説は使い古されている。
しかし、この本では、相対主義がおよそなんらかのリベラルな動機付けの力をもち得るとするならば、相対主義はそれを正義の理念に負うという。要するに、「リベラリズムの考え方は相対主義の哲学を基礎とする」という言説の持ち主は、暗に正義の観念を前提としているというのである。ど、どういうことなのか、それは?!
相対主義がリベラリズムの実践へ人を動機付けるという議論が一応のもっともらしさを持つのは、「もしあらゆる価値観が原理上主観的・恣意的である点で同じであるとするならば、自分が他者と異なる価値観を選び取る自由を持つのと同様に他者も自分と異なる価値観を選び取ると自由をもつことを否定できない」という(中略)命題が多くの人々の対して強い説得力をわれわれが承認しているからである。
引用元:「共生の作法」井上達夫p196
しかし、この命題の前提には「等しきものは等しく扱うべし」という基本的な考え方が根底に横たわる。
「人には「玉砕しろ!」といっておきながら、自分は敵前逃亡する」といったエゴイズムは、「等しいものを理由なく等しく扱っていない」。まさにこれが絶対的不正義である。
そして、このことから、逆に正義とは何か考えると、「等しきものは等しく扱うべし」といえるだろう。
そして、先ほどの命題は、エゴイストにとっては無意味である。それはエゴイストは「自分は自分」というだけの理由(理由なき理由)で、他者と自己を区別するから、「自分の価値観が正しい。それは、自分がこう思うからだ」という論理がエゴイストには可能だからである。
先ほどの命題が、このエゴイストの「論理」を否定するものであるならば、先ほどの命題の支持者はエゴイストではありえない。そう、、「等しきものは等しく扱うべし」とう意味での正義を共有してはじめて、先ほどの命題を支持できるのである。
だからこそ、リベラリズムと正義はきっても切れない関係にあるのだ。
このような、本書の議論のおかげで、これまで気づかないことに気づくことができ、非常に喜んでいる。
しかし、私は、ロールズの正義論等の、法哲学者の議論のところが難しすぎてわからなかった。チョコレートの例(p43)等、多少わかりやすい例はあるものの、法哲学者の議論の説明とその批判のところは、かなり難解であり、法哲学のバックグラウンドが必要である。
自分の法哲学についての無知が悔しかった。
まとめ
「共生の作法」は法哲学の知識がない人が読んでも面白い本である。
しかし、法哲学の知識があれば、もっと楽しめるはずである。
その意味で、「最高の法哲学入門」だ、こう私は考える。