アホヲタ元法学部生の日常

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超個性的な初期の最高裁少数意見〜隼町白熱教室!?

裁判官と学者の間

裁判官と学者の間

1.昔の判例の勉強はつまらない!?
  判例の勉強というと、最近の判例が脚光を浴びることが多い。近時重要な判例が多いのは事実であり、「全部の判例は回らないから、重要な最近のものを先に」というのは理解可能な心理である。
 これに対し、昔の判例、例の基本書で結論の後に「(判例・通説)」とだけ書いていて、理由付や反対説が紹介されていないものは、結論は覚えても、その理由や内容について吟味する機会が少ないのではないか。
 判例が長い年月を経ていわゆる「確立した判例」になると、いわゆる「論点」ではなくなり、これを試験で問うこともあまりなくなるのは事実である。そこで、このような判例はあまり脚光を浴びず、ロースクール生等の法律学習者がこれらの原文を読むのも稀かと思われる。
 しかし、昔の判例は、実は今の判例よりも、判決自体の「面白さ」は上であることが多い


 現在の判例は、判決文自体が一定の形式に従ったもので、少数意見が付されることはなくもないが、少ない。調査官解説や判例タイムズ判例時報の解説によって背景がよくわかってはじめてその意義が分かり、やっと面白くなってくる。
 しかし、制度的に安定する前の話は違う。つまり、最高裁判所設立当時は、最高裁の合議における多数意見と少数意見の白熱した議論がビビッドな形をとったまま、判決文に持ち込まれるのである。そこで、意見の対立点、つまり(当時の)論点も分かりやすいし、多数意見と少数意見を分けたものも、判決文だけから容易に了解可能である。何より、お互いが「自分が正しい」と主張しあう姿は、白熱するディベートを聞いているような面白さがある。これは、最近の判決にはなかなかない面白さである。


そもそも、多数意見や少数意見とは何か。最高裁判決では、全員一致の意見の場合もあるが、

裁判所法第十一条 (裁判官の意見の表示) 
最高裁判決の)裁判書には、各裁判官の意見を表示しなければならない。

とされており、多数意見に反対する者がいれば、意見が表明される。この少数意見制度は、裁判官の国民審査制度のために作られた。
 つまり、国民がどの裁判官を不適格か審査するためには、どの裁判官がどのような意見を持っているか知らしめる必要があるのである。


 ここで、特に最高裁判所が設立された後の最初の十年間は、情熱的な少数意見が頻繁に記載され、場合によっては生きすぎて「少数意見制度の濫用」と批判されるものすら生じた。後に最高裁の裁判官となった伊藤正己先生*1は、「裁判官と学者の間*2」では、

少数意見制は、ときに不当とみられる用い方をされるおそれがあるといわれる。その一つの例は、もっぱら個人的感情を露呈し、自己と異なる意見を論難し、さらに特定の裁判官の名を示して罵倒するようなものである。
(中略)
我が国の最高裁にあって、初期の不慣れな時期にこの種の少数意見が散見され批判を呼んだ
伊藤正己著「裁判官と学者の間」74頁*3

とされている。現在では、反対の意思を強く表現する場合でも(多数説には)到底賛同できないという程度であるが、当時は全く違ったのである。


2.名誉毀損!? 白熱する最高裁判決内のバトル
 白熱ぶりを実感していただくため、具体的に、少数意見の例を挙げよう。
 まず、刑事判決について数個の犯罪事実についてまとめて証拠の標目を示すことが許容されるとする多数意見に対し

雑挙主義(つまり、多数意見のようにまとめて証拠の標目を示すこと)は、証拠を軽んじ、時に不明確な証拠を採って有罪に処する恐れなしとしない。少なくとも、その疑いを受けるに足る場合があり、延いて裁判の威信にかかわるものである。
 以上情理何れから考えても之程見易い道理を何故最終審であり指導審である最高裁判所が以上の態度を採らねばならないであろうか。到底肯首し難い
小谷勝重裁判官最判昭和29年5月28日刑集8巻5号775頁


  執行猶予を言い渡された犯罪の余罪について更に執行猶予を言い渡すことができるかにつき多数意見を批判して

(多数意見のような)微視的な恣意的解釈論には賛同できない
齋藤悠輔最判昭和28年6月10日刑集7巻6号1404頁


  控訴趣意書提出期限直前に弁護人選任権を行使したため、期限途過後に弁護人が選任されたことにつき、「控訴趣意書提出期限内に控訴趣意書を提出できるような適当な時期」に選任すべきとした多数意見を批判して

(多数意見のいう「控訴趣意書提出期限内に控訴趣意書を提出できるような適当な時期」という)こんなボンヤリした標準に従って、憲法上の権利の行使の適否を決定するのは、国民に難きを強うる酷なものがあるではないか?
真野毅最判昭和28年4月1日刑集7巻4号713頁


差し戻し後の控訴審判決がその破棄された前判決との関係においても不利益変更禁止の原則に従うべきものとした多数意見を批判して

(多数意見をとってしまった場合のように、)原裁判所が折角その(差し戻しを命じた上告審判決の)命令に従って詳細に事実審理をした結果犯罪事実並びに犯情に前の判決と異なった結果を生じたと認めてこれに適当する刑を科しても、次の上告裁判所では同一事件に対し出し抜けに刑だけは前の判決よりも不利益に変更してはならない、変更したら旧刑訴452条(注:不利益変更禁止の原則)の精神に反し違法で御座るというがごときは全く上告裁判所の横暴、無理というものであって、下級裁判所としては到底納得し得ないところといわなければならない。されば、多数説は、法理と常識と下級裁判所を無視したいわば安価な慈善的上告勧奨論であって、反対せざるを得ない
齋藤悠輔最判昭和27年12月24日刑集6巻11号1363頁


食糧管理法の大法廷判決に従った多数意見に反対して

この大法廷の判決は、一見頗る常識に富んだ尤もな議論のようにも見える。しかし、それは、飽くまでも目先のことであって、その実極めて浅薄な謬論である
(中略)
わたしは、前記大法廷判決には声を大にして反対する。最高裁判所の裁判というのは、もつと大所、高所からすべく、より毅然たるべきであると信ずるからである。
齋藤悠輔最判昭和26年12月27日刑集5巻13号2657頁

詐欺の起訴状に前科等の余事記載があったことについて、これは違法で治癒不能とした多数意見に対し、

(起訴状一本主義を定める刑訴256条)六項の規定だけを根拠として直ちに多数説の説くがごとき結論は絶対に生じない。

(中略)
(多数説は)山鳥の尾の長々と、いかにも尤もらしく説明している(中略)(しかしながら、)多数説は、重要である後者と重要でない前者*4とを混同する詭弁(に過ぎない)

(中略)
多数説の力説するがごとくこれを以って、いわば綸言汗のごとき治癒不能の違法であると見るのは浅見、迂遠も甚だしい


(中略)
多数説は極めて窮屈な形式論であつて、抑も裁判は証拠によるべきものである大原則を忘れ、裁判官自らを殆ど人形乃至奴隷視するものといわざるを得ない
齋藤悠輔最判昭和27年3月5日刑集6巻3号351頁

少し例を挙げただけでも、白熱ぶりが分かるだろう。
また、少数意見が一方的に多数意見を批判するのではなく、多数意見側からも少数意見を批判するのもある*5

 銃砲火薬取締法が既に失効したとした多数意見について、齋藤裁判官は以下のように憤然とする。

そのような戦後派的考え方は、わが国の従来の立法形式を理解しない極めて浅薄な考え方といわなければならない。

(中略)

地方自治法が与えた委任の範囲と、銃砲火薬取締法の委任の範囲を比較して)この新しい自治法の規定に目を蔽い、ひたすら彼の旧い法律八十四号だけを非難するがごときは、驚くべき偏見であり、笑うべき自己矛盾というべきである。

(中略)

(多数意見のいうような)一部の罰則規定だけは、或る期限で失効し、一部の禁止命令だけは、その後も依然法律と同一の効力を以って存続し、かくて制裁の伴わない禁止命令だけを徒らに空しく叫び続けるというようなことは、常識からいつても、また、右法律七十二号を熟読玩味しても、到底了解することはできない。(中略)多数説は無理であり、曲解であると言わざるを得ない
齋藤悠輔最判昭和27年12月24日刑集6巻11号1346頁

ここまで言われて多数説の裁判官(残りの裁判官全て)も憤然としたのだろう。うち、河村又介裁判官と入江俊郎裁判官は補足意見を出して、

齋藤裁判官は誤解している
河村又介裁判官入江俊郎裁判官最判昭和27年12月24日刑集6巻11号1346頁

と、あえて名指しで反論している。


 このような少数意見への反論の最たるものは、尊属傷害致死罪を合憲とした多数意見の立場から、尊属傷害致死罪を違憲とする穂積重遠裁判官、真野毅裁判官の少数意見に対して齋藤悠輔裁判官*6がなした反論であろう*7

 少数説に対しては特に世道人心を誤るものとして絶対に反対(する)
(中略)
真野説は、勢頭米国連邦最高裁判所に掲げられている標語や国際連合人権宣言を由ありげに引用している。だが、悲しいかな、米国各連邦では、必ずしも法律が同一でなく、従って、かかる異なる法の下における実際上の正義が平等であり得ないことはいうまでもない。しかのみならず、米国には人種による差別的法律の多数存在することは、世界周知の事実である。さすればこそ米国連邦最高裁判所においては特に標語として論者引用の四字(Equal Justice Under Law)をかの真白の大理石深く刻んでおく必要があるのであって、我憲法上段鑑とするは格別毫も模範とするには足りないものである。
(中略)
わが憲法十四条を解釈するに当り冒頭これらを引用するがごときは、先ず以って鬼面人を欺くものでなければ羊頭を山懸げて狗肉を売るものといわなければならない。以下の論旨については前に一、二触れたものであるが要するに民主主義の美名の下にその実得手勝手な我儘を基底として国辱的な曲学阿世の論を展開するもので読むに耐えない
齋藤悠輔最判昭和25年10月11日刑集4巻10号2037頁


  上記の最判昭和27年12月24日や、最判昭和25年10月11日のレベルにまで達すると、名誉毀損の疑いさえ生じ、最高裁の権威という意味では問題がありそうだが、十五人の裁判官が時に感情的になりながらも激論を交わした痕跡が判文上も窺われ、人間味溢れる激論の面白さは感じ取れると言えよう*8


3.刑法230条の2第3項
 ところで、ここまで熱が入りすぎると、これらの行為が名誉毀損にならないか心配になる。

名誉毀損
第230条 公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、3年以下の懲役若しくは禁錮又は50万円以下の罰金に処する。

 刑法230条は名誉毀損罪を規定する。
 裁判の公開により、裁判書の記載は「公然」と言ってよいだろう*9
 そして、例えば最後の例なら、「憲法十四条を解釈するに当り冒頭」「米国連邦最高裁判所に掲げられている標語や国際連合人権宣言を由ありげに引用した」と、事実を摘示している。
 もっとも、その相手が裁判官という公務員である場合には、刑法302条の2第3項は以下のように規定する。

(公共の利害に関する場合の特例)
第230条の2 前条第1項の行為が公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ることにあったと認める場合には、事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない。
2 前項の規定の適用については、公訴が提起されるに至っていない人の犯罪行為に関する事実は、公共の利害に関する事実とみなす。
3 前条第1項の行為が公務員又は公選による公務員の候補者に関する事実に係る場合には、事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない。

 これを受けて、最高裁判所は、公共の利害に関する事項について自由に批判、論評を行うことは、もとより表現の自由の行使として尊重されるべきものであり、その対象が公務員の地位における行動である場合には、右批判等により当該公務員の社会的評価が低下することがあっても、その目的が専ら公益を図るものであり、かつ、その前提としている事実が主要な点において事実であることの証明があったときは、人身攻撃に及ぶ等論評としての域を逸脱したものでない限り、違法性を欠き名誉毀損にはならないとする(最判平成1年12月21日民集43巻12号2252頁。最判平成9年9月9日民集51巻8号3804頁)
 少数意見を書いた裁判官は大真面目であり、自分の意見が正しいと確信していると思われる。 すると、公益目的に出たのだろうし、また、指摘する事実は全て判決に書いているので、少なくとも主要部分*10は真実である。問題は、国辱的な曲学阿世とまで論評をするのは、「論評としての域を逸脱」していないかである。
 この点、ゴーマニズム宣言事件(最判平成16年7月15日民集58巻5号1615号)では、「原告が、被告をひぼうし、やゆするような表現が多数見られる」という点を重要な理由として未だ、「論評としての域を逸脱」していないとした。これは、名誉毀損の成否が「論争型の紛争において、両当事者の主張が表現という意味での全体の文脈の中で、意見ないし論評としての妥当性が判断される*11
 上記のような活発かつ時には感情的なやりとりに鑑みれば、名誉毀損というまでは至らないと考えもあり得るが、非常に微妙であり、正直告訴されれば起訴されてもやむを得ないレベルと言えよう*12
 名誉毀損罪が親告罪で本当によかった(刑法232条1項)


4.よりよい裁判制度への熱意
 このような 行き過ぎはあるものの、このような活発少数意見のやりとりがなされた背景を探ったところ、興味深い判例に行き当たった。

 最判昭和24年5月18日刑集3巻6号794頁の真野毅裁判官の少数意見である。

戦後のあわただしい法制の変革を大観するとき、われわれの最も注意しなければならないことの一つは、プラグマティズムの哲学思想が、法令のそこここに採り入れられ、時の鐘がわれわれの迷夢を破ろうとしている現実を感得することができる。手近に二、三の例を拾ってみよう、(一)まず、最高裁判所の「裁判書には、各裁判官の意見を表示しなければならない。」(裁判所法第一一条)と規定された。従前は長い間一元論的な哲学思想の流れをうけて、裁判というものは是が非でも無理やりに一本に纏め統一ある姿に仕上げなくてはならぬものとされていた。しかるに、ここには、各裁判官の意見が、現実の問題として互いに相岐れた場合には、無理に一つに纏めず、現実が多元的である以上その多元性をそのまま率直に認めて行こうとされたのである。これはまさにプラグマティズムの思想である。(中略)米国においては、卓越した裁判官の示した幾多の優れた少数意見が、やがて数年、十数年、数十年の後には、多数意見となり、ロー・オブ・ザ・ランドとなっていったことは、すでに多くの経験の実証するところである。私は、この制度が、わが司法の進歩と発展に貢献するところ多いことを信じて疑わない。
真野毅最判昭和24年5月18日刑集3巻6号794頁

当時の裁判官は、 少数意見制度の活用が司法の進歩に貢献すると考え、情熱的によりよい裁判を目指していたのである。

まとめ
 昭和20年代には、名誉毀損になりそうな記載を判決に少数意見として書いた最高裁判官がいた。名誉毀損罪が親告罪でないとぶっちゃけ危ない気もする。
 このような「行き過ぎ」はあっても、最高裁判所設立当時の裁判官による判決からは、「評議の熱気」が伝わり面白い。
 彼らがこのような少数意見を積極的に展開したのは、よりよい裁判制度を目指した熱意による。
 このような「白熱した最高裁判決」は、最高裁の威厳を保つという理由からか近年は減っているが、 現在でもよりよい裁判制度を目指そうという彼らの「熱意」に学ぶべきところはあるのではないか。

*1:憲法英米法学者

*2:Amazonで4万円で売られているが良い本なので、図書館で一読されることをお薦めする

*3:後半も面白いので機会があれば

と一緒にレビューしたい。

*4:具体的に指すものは判決本文をご参照あれ

*5:まさにディベートだが、やり過ぎると伊藤先生ご指摘の特定の裁判官の名を示して罵倒になりかねない。

*6:なお、合憲との結論は多数説と同じだが、破棄自判か否かの取扱においては多数意見と異なる

*7:これ以上に強烈なものをご存知の方はぜひご教示いただきたい。

*8:ここまで激しいと、合議の後気まずい思いをしなかったのかなぁとか、「一人反対意見」を書くのがほとんど特定の裁判官なのは、なんか理由があるのかなぁ等と、読者の想像を掻き立てる

*9:現に公式判例集にも掲載されている。

*10:誤解にもとづく反論も一部ありそうですが

*11:重判平成16年度民法7事件

*12:弁護士用語では、こう言う場合、「リスクは無視できない」と言うらしい。