- 作者: 和田俊憲
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2013/11/07
- メディア: 新書
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このブログの記事は、それぞれ色々な経緯で書いているが、純粋な「ノリ」で書いてみたら意外と好評を博したのが、『オタクと刑法の話』である。
オタクと刑法の話〜3つの事例から紐解くオタクと刑法の意外な関係 - アニメキャラが行列を作る法律相談所withアホヲタ元法学部生の日常
もちろん、これは、和田先生の『鉄道と刑法の話』のオマージュなので、改めて和田先生には心よりの感謝を表させて頂きたいが、オタク物の刑事裁判例は意外と多いので、これを面白く料理すれば、半期の刑法の演習を「オタクと刑法の話」で実施することは可能なのではないかと、少し自信を持ったところである。
それでは、オタクと刑法の話その2の始まり、始まり〜。
1.児童ポルノオタクを禁圧するためには、刑法理論なんてどうでもいい?
児童ポルノ。これは実在児童に関するものである限り、「児童虐待の記録」でもあるので、その製造や流通を禁圧することは必要である。そして、社会的にも、禁圧の徹底が叫ばれているところではある。
ここで、興味深いのは、ある最高裁の決定(最決平成24年7月9日判タ1383号154頁)である。この決定は、第3小法廷で出された物だが、3人の裁判官による多数意見は、上告理由にならないから上告を棄却するというだけのシンプルなものである。しかし、2人の裁判官が強烈な反対意見を書いている。
この事案の被告人は、確かになかなか同情できない。要するに、その当時、児童ポルノオタクは「秘蔵」の児童ポルノ画像を交換するために、アップロードサイトに児童ポルノをアップロードし、その児童ポルノがいいと思った別のオタクが、児童ポルノオタク同士の交流サイトにそのURLを書き込んでいたそうである*1。まさに、その「URLを掲示板に書き込んだ」行為を理由に、被告人は児童ポルノ公然陳列罪で有罪とされたのだ。確かに、この人を有罪にして、このような行為を禁圧したいという、最高裁の多数の裁判官の心情は理解できなくもない。
ところが、2人の最高裁裁判官からその理論構成に「物言い」がついた。要するに、刑法は、犯罪者を「正犯」と「幇助犯」に分けている。正犯というのは自ら犯罪を犯した者、幇助犯は正犯を支援・援助した者である。例えば、ナイフを使って強盗をした者は正犯だが、単にナイフの準備を頼まれて、ナイフを渡しただけの者は幇助犯ということである。当然、幇助犯は正犯よりも刑が軽い。
本件では、最高裁の多数の裁判官は、URLを書き込んだことは、「正犯」、つまり、自ら児童ポルノを陳列したに等しいと断じた。しかし、2人の裁判官はこれに反対する。
「公然と陳列した」とされるためには、既に第三者によって公然陳列されている児童ポルノの所在場所の情報を単に情報として示すだけでは不十分であり、当該児童ポルノ自体を不特定又は多数の者が認識できるようにする行為が必要(であるところ、単なるURL情報の書き込みでは)「公然と陳列した」には当たらず、公然陳列罪が成立するとした原判決には法令の違反があ(る。)
被告人の行為は社会的には厳しく非難されるべきものであり、また、新たな法益侵害の危険性を生じさせるものであるという原判決の指摘も理解できないではない。しかし、そのことを強調し、URL情報を単に情報として示した行為も、「公然と陳列した」に含まれると解することは、刑罰法規の解釈として罪刑法定主義の原則をあまりにも踏み外すもので、許されるものではなく看過できない。被告人の行為については児童ポルノ公然陳列罪を助長するものとして幇助犯の成立が考えられるのであり、その余地につき検討すべきであって、あえて無理な法律解釈をして正犯として処罰することはないと考えられる。
要するに、多数意見は、いわば「児童ポルノオタク(ロリコン)に人権なし」という感じで、正犯と幇助犯を分けた刑法の趣旨(罪刑法定趣主義)を無視して、無理矢理「正犯」概念を大幅に拡張して被告人を児童ポルノ陳列罪の正犯にしているのであって、いくら被告人のやっていることが不当であっても、もう少し冷静になり、刑法に書いているとおり、幇助犯での処罰を行うべきだ。これが、反対意見の論旨である。
個人的には、反対意見は非常に説得的であると考えている。そして、その後、本決定に実質的に反するとも思える下級審判決も出ている。ニコニコ動画に違法にアップロードされた動画*2へのリンクを貼り、ウェブサイト上で当該動画を視聴できる状態に置いたことについて、正犯性を否定した*3が、(地裁レベルではあるものの)本判決後に出ているのだ(大阪地判平成25年6月20日判時2218号112頁)。リンクは著作権侵害になるのかに関する本(「このつぶやきは犯罪です」等)では、最高裁決定ではなく、大阪地判平成25年6月20日を使って説明しており*4、これも、最高裁決定の意義を限定する*5試みと理解することができる。
児童ポルノを禁圧したい、この心情自体は理解できるが、だからといって、「児童ポルノオタク(ロリコン)に人権なし」として、今までの刑法理論を無視した結論ありきの裁判をしていいはずがない。最高裁決定の多数意見は、特に「児童ポルノオタク」のような、同情を集めにくい被告人が行った行為については、このような結論ありきの裁判が日本の裁判所において現実に行われ得るということを示している。最高裁決定の反対意見は、例え同情できない「児童ポルノオタク」の行為であっても、これまでの歴史的判例・学説が人権保障のために築き上げて来た理論に立ち戻り、正犯で処罰できないなら、できないことを正面から認めようという態度を持つ、いわば、少数派のための(人権擁護のための)最後の砦として最高裁を機能させようという裁判官が、少なくとも2人いたことを示している。いずれにせよ、この最高裁決定は、非常に重要な意義を持っているだろう。
2.エヴァンゲリオンを見ていたから無罪?
次の事案は、住居侵入、器物損壊の事件(東京地八王子支判平成12年4月13日判タ1053号290頁)である。被害者は被告人に昔ビリヤード店舗を貸していた、いわば被告人を知っている人である。その被害者は、現在そのビリヤード店舗を経営していたところ、被告人が朝方店舗の玄関の中に侵入したのを被害者が目撃し、直後に犯人が被告人である旨の被害届が提出されている。旧知の人が犯人だと、被害者が直後に申告している以上、その供述の信用性は一般に高いはずであり、被告人にとって無罪の可能性は極めて低い事案である。
起訴された被告人は、2つの戦略を取った。1つ目は、被害者の目撃供述の信用性を争うこと、もう1つは、アリバイを主張することである。
まず、一見崩すことが不可能とも思えた目撃証言の方は、突き崩す「鍵」が1つあった。それは、被害届が2通あったことである。被害当日に申告した内容がそのまま被害届に記載されているのであれば、その信用性は極めて高いだろう。しかし、その内容と、後で警察が「事件化」したい内容が異なってしまうと、警察として困ってしまう。そこで、今の実務では、そもそも被害届をすぐに出させない(とりあえず少し捜査を進め、その後で被害届を出させる)という方法もあるが、この事件では、当日に被害届が出された後、作成日を被害当日とし、受付番号も元の被害届の番号をそのまま使った一見本物のように見える被害届を3ヶ月後に出させるという、一見この内容を被害当日に申述したのではないかと思えるような被害届を作らせていたのである。そして、当日に出した被害届と比べて、3ヶ月後に出された被害届の内容は、詳細かつ、後の証言と整合するように作られていた。
ただ、これだけでは、決定的ではない。次に重要なのは、被告人の行動に関する被害者の証言である。ビリヤード場には2つの扉があるところ、1つ目の扉の鍵は既に開けられていた。問題は、中の方の扉であり、被害者は、「被告人がその場にあった花瓶の水を捨てており、その花瓶で扉のガラスを割り破ろうとしていた」と証言した。しかし、そもそも、ガラスを割り破るなら、水が入ったままの方が重くて好都合だろう。しかも、本当に水を捨てていれば、その場に水たまりができているはずであるが、現場に来臨した警察官は、水たまりを見ていなかったのである。そもそも、現場は暗く、短時間では、犯人を十分に視認できるとは思えない。しかし、被害者は、被告人に間違いないと言い、その理由の1つが、犯人の花瓶の水を捨てる間、犯人をずっと見ていたからだというものである。しかし、花瓶の水を捨てるエピソードが怪しくなれば、元に戻って、本当に犯人を視認できるくらい長時間被害者は犯人をずっと見ていたのか、が問題となるだろう。
そして、証言に関して最後に出て来たのは、被害者の被告人に対する嫌悪感である。元々、被害者は被告人にビリヤード場を貸してそれを経営させていたところ、被告んと被害者の間で、被害者が被告人に賃料を二重に払わせていたのではないかというトラブルになり、結果的には、被害者が、被告人を追い出して、自らビリヤード場を経営するようになった。流石にそれだけで、被害者が被告人を陥れる理由にはならないかもしれないが、少なくともホームレス風の人が不法侵入し、短時間でよく顔が見えなかったという場合に、それが被告人だと勘違いする理由にはなるだろう。
このように、目撃証言をぐらつかせた上で、被告人は、前日の夜から友人宅で友人と一緒にエヴァンゲリオンのビデオを見ていたとのアリバイを供述し、供述通りの時間のエヴァンゲリオンの番組が録画されていたビデオが友人宅で発見されている。但し、このアリバイは決定的ではない。それは、被告人は、当日朝友だちの家を出て外出しており、徒歩や電車では現場に着かないにせよ、タクシーを使えば犯行時間に現場に着くことも不可能ではなかったからである。この点は、被告人が(ビリヤード場を追い出され)当時「ニート」になっており、通常タクシーを利用していないことから、アリバイを虚偽として排斥することは難しいという程度の認定となっている。
以上の結果を踏まえ、裁判所は、目撃証言の信用性を否定し、アリバイも排斥し難いことから、被告人を無罪とした。
ここで、重要なのは、アリバイという主張の特殊性である。身に覚えのないのに疑われた人は、自分がその日何をやったか思い出して、アリバイを供述しようとする。しかし、全ての人が全ての行動について利害関係のない第三者に目撃されているとは限らないし、また、それが前日ではなく、3ヶ月前とかになれば、仮に目撃した人がいても、それを覚えていないこともある。本件では、犯行直前まで、友人宅で友人と一緒にいたことが、友人の証言と、それを裏付けるビデオによってある程度裏付けられているが、結局、タクシーに乗れば現場に着ける時間までのアリバイしか立証はできなかった。その意味で、アリバイ主張に全面的に頼るのは危険である*6。だからこそ、被告人は、「エヴァンゲリオン」だけで無罪を取ろうとせず、目撃証言の信用性を潰すことにも全力を尽くし、それが功を奏したのである。
また、警察捜査の手法として、日付をバックデートした被害届を作らせることもあるということであり、被害当日付けの被害届があるからといって、被害当日に作られたとは限らないという点も教訓になるだろう。
3.バーチャルリアリティから現実の犯罪へ?
最後もまた、ロリコンに関する裁判例である。静岡地判浜松支判平成11年12月1日判タ1041号293頁は、要するに、11歳と8歳の少女に対する強制わいせつの否認事件であるが、裁判所は、被害者の供述が信用でき、被告人の供述は信用できないとして、有罪判決を言渡している。
ここで、本件で特徴的なのは、被告人宅から、いわゆるロリコンものの写真集やビデオが発見されたことから、裁判官が「バーチャルリアリティからリアリティへ」という自説を開陳して、それを有罪の根拠に使っているところである。
右多数の卑わいな写真やビデオテープなどの存在は、被告人の異常な性的嗜好であるロリータ・コンプレックスを証明して余りあるものであり、被告人は、仮想現実(ヴァーチャルリアリティ)な世界に飽きたらず、現実の世界に自己の性的欲求を拡大させ、下着を付けたままの少女たちの淫猥な写真を撮ることを手始めとして、なおもこれが欲求が高じて、さらに下着をとらせて全裸で卑わいな写真を撮るということに発展したものというべく、このことは心理学的に充分に説明が可能なのである。
静岡地判浜松支判平成11年12月1日判タ1041号293頁
このような発想については、もしかして判決を書かれた裁判官ご本人が書かれたのではないかとも思われる、同判決に関する判例タイムズの匿名解説に詳しい*7。
しかし、アニメ、ゲーム、漫画等の「バーチャルリアリティ」が、人格形成にどのような影響を与えるかについては諸説あるが、決定的な証拠はないようである。例えば、あるアメリカの連邦最高裁判例においては、ビデオゲームが子どもに害悪を与えるという因果関係があるという証拠はない("it cannot show a direct causal link between violent video games and harm to minors")旨をカリフォルニア州自体が自認しているとされている*8。
裁判官が、統計学や心理学等の社会常識を勉強しようと心がけること自体は正しい。しかし、この「心理学的に充分に説明が可能」という部分は、法廷で(必要に応じて鑑定等を用いた上で)被告人側と検察官側の十分な主張立証が行われ、その上で認定された知見(経験則)なのであろうか? もし、そうでなければ、裁判官が、私知により裁判をしたという批判は免れられないであろう。
最近の児童ポルノ法改正論議でも、アニメ、ゲーム、漫画等の規制の下準備として、バーチャルリアリティと犯罪の関係についての調査をするかしないか等が議論になったところであるが、現時点では、決定的な証拠がないことを素直に認めた上で、学会におけるより精力的な研究と、思想の自由市場における議論の深化を待つことが適切であるように思われ、今回の裁判官の行為は、やや「勇み足」なのではないかと思われるところである。
まとめ
児童ポルノオタク、アニメオタク、ロリコンに関する3つの判決を見ることにより、「オタクに人権なし」という裁判の危険性、「アリバイ」主張をどのように行うべきか、そして、バーチャルリアリティと犯罪の影響について勇み足の判決をすることの危険性等について知ることができる。
オタクというのは、やや極端なところがあり、逆に社会の方でも、過剰反応気味になることが少なくない。しかし、そういう時だからこそ、「法の下の平等」を思い出して、原理原則に忠実に裁判をすること、これが重要であることを、オタク判例は教えてくれる。
*1:残念ながら、当方に当時及び現在の実務に関する知見が乏しいことから、いつか「専門家」にご教示賜りたいところである。
*2:正確には、権利者自身がアップロードし、その後削除した動画を、別人が再度アップロードしており、問題となっているのは後者の動画である
*3:幇助については、著作権者の明示又は黙示の許諾なしにアップロードされていることが、その内容や体裁上明らかではなかったとして、幇助もまた否定した
*4:同書107〜112頁は、大阪地判平成25年6月20日によって、「URLリンクは著作権侵害になるのか」を説明
*5:射程を縮減する
*6:なお、実務的には、検察・警察が、そのアリバイを「潰す」という捜査手法をとることがありますし。
*7:匿名解説の一部を抜粋すると、「最近自己の部屋に閉じこもりがちな若者が一〇〇万人はいると推定されている。これらの若者は人との交流を知らずに、ただひたすらにパソコンなどの機械に面して自己の世界にのみひたったりしており、また、回避性人格障害、離人性人格障害等の問題がクローズアップされている。少子高齢社会というのにである。 人間には、倫理道徳や法律規範等の社会規範を内面化してこれを自己の行動基準とするという父性原理や、他人に対する思いやりとか、助け合う精神だとか、思い遣りなど共感感情を起こす母性原理が、ともに個人の中に備わっていなければならないという精神分析学派の説が注目視されている。 人間が、相互に基本的人権を尊重しあうという根本の精神が抜けてしまったといえる。」
*8:Brown v Entertainment Merchants Association