署名押印できない理由〜極めて特殊な法ヲタの1分野
通勤大学法律コース 署名・捺印―知らなかったではすまされないビジネスのルール (通勤大学文庫)
- 作者: ビジネス戦略法務研究会,館野完,古橋隆之,荒井浄
- 出版社/メーカー: 総合法令出版
- 発売日: 2002/10
- メディア: 単行本
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昨年末のコミケで出展された同人誌のうち、法律系で最も注目に値するものは、サイ太先生(@uwaaaa、ゴ3ネタ[ゴ3])の「大嘘判例八百選」であろう*1。
目次は、
1 日本昔話嘘判例百選
2 アニメ・ゲーム嘘判例百選
3 大江戸嘘判例百選
4 西洋嘘判例百選
5 楽曲嘘判例百選
6 豊胸判例百選
7「裁判官○○は○○のため署名押印できない」判例百選
8 判例の射程判例百選
付録:弁護士死亡カルタ
ということで、主に「嘘判例」をまとめた楽しい内容となっている。
ところで、実は個人的に極めて注目したのが「裁判官○○は○○のため署名押印できない」判例百選である。
そもそも、法律ヲタクには、◯◯法という、法律そのものが好きな人と、裁判・司法が好きな人に二分される。後者のうち、有力なのは、傍聴マニアであり、有名傍聴人が多数いらっしゃるように、非常に有力なグループである*2。その他、裁判官マニアも居て、「全裁判官経歴総覧」を肌身離さない*3。また、事件番号(東京地方裁判所平成25年(ワ)第1号等)のマニアもおり、1番をゲットするため、12月31日の深夜に裁判所の夜間受付に並ぶ強者等がいる。少しマニアックなところでは、書記官マニアもおり、書記官よりも、高裁で事件番号の読み上げをする廷吏(事務官)が可愛いことが多い等、いろいろな未確認情報が出回っている。
さて、これらは比較的メジャーなものである。私がこよなく愛するものの、同好の士をこれまで見つけることさえできなかった、超マニアックな分野がある。これが、署名押印できない理由である。新年早々極めてマニアックで申し訳ないが、今回は、署名押印できない理由への「愛」について語ってみたい。
2.法的根拠
判決には、裁判官の署名押印が必要である。裁判官が責任を持ってこの判断を下したという意味であり、筆ペン等で水茎の跡も鮮やかに書かれる方や、ペンでやや角張った文字を書かれる方等、裁判官の個性が出る、これ自体とても素晴らしいものである。
ところが、裁判官、特に合議体の3人の裁判官の中に、様々な理由から署名押印できない裁判官が出てくることがある。
その場合のため、刑事訴訟法、民事訴訟法は、対応手段を用意している。
刑事訴訟規則55条 裁判書には、裁判をした裁判官が、署名押印しなければならない。裁判長が署名押印することができないときは、他の裁判官の一人が、その事由を附記して署名押印し、他の裁判官が署名押印することができないときは、裁判長が、その事由を附記して署名押印しなければならない。
民事訴訟規則157条 判決書には、判決をした裁判官が署名押印しなければならない。
2 合議体の裁判官が判決書に署名押印することに支障があるときは、他の裁判官が判決書にその事由を付記して署名押印しなければならない。
その結果、「裁判官◯◯は、××のため(につき、により)署名押印できない」という記載がなされた判決が多数存在する。
3.「レア物」をコレクトする喜び
実は、署名押印できない理由のうち、メジャーなものは、「退官」と「転任(転勤)」*4、そして「填補」である。裁判官が定年で退官してしまう場合もあるし、自主的に退官して弁護士等になることも多い。また、転勤が多い裁判官は、別の裁判所に転勤していなくなることも多い。更に、支部等に別の裁判所から裁判官が通ってくる填補制度により、裁判官がいなくなることもある*5。
ところが、これら以外にも、マイナーな理由で署名押印ができない場合、つまり、コレクター的にいうと、「レア物」が存在するのである。
例えば、出張(長期出張、海外出張)のためといった理由があり、裁判官の作成した報告と照らし合わせると、この時期にこういう出張をしてこういう報告をまとめたのでは等と想像が膨らむ。この類の珍しいものとしては、在外研究*6や、国内特別研究*7がある。
また、研修というのもあり、その中でも珍しいものとして新任判事補研鑽*8がある。
更に、配置換*9、産休*10等、公刊事例が1つしかない*11ものは、特にマニア心をくすぐる。
これらの理由は、裁判官の生活における場面場面を物語っており、「知られざる裁判官の日常を(間接的に)垣間みることができる」という楽しみがある。
4.裁判官死亡事件
ところで、残念ながら比較的多い理由が「死亡」である。裁判官の激務のため、在官中におなくなりになられる裁判官もいらっしゃる。
ここで、(通常署名押印ができないと書かれる合議事件ではない)単独事件について、裁判官が死亡した事案がある。もちろん、普通は裁判官を交代させれば良いのだが、裁判官が判決を言い渡した後、判決書を作成し終わる前*12に死亡し、書記官が、草稿をタイプした上で「裁判官◯◯は、死亡につき、署名押印できない。」と書いたという事案が公刊事例だけでなんと5件*13もある。
例えば、東京高等判昭和37年5月10日高等裁判所刑事判例集15巻5号331頁では、村松稲作判事が昭和36年7月13日の公判期日に判決を下したものの、判事がおなくなりになったため、判決書の草稿をタイプしたものに、立会い書記官が「裁判官村松稲作は死亡につき署名押印できない」と附記して署名押印したものが編綴されているという事案につき、
以上の事実に徴すれば、右裁判官は判決書の草稿によつて前記判決の宣告をなしたうえ判決書をタイプライターで印刷させるため草稿を係員に交付したが、その印刷ができ上らないうちに死亡したためこれに署名押印することができなかつた、と推認されるのである。思うに判決の宣告は判決書の完成を待たずにその草稿によつてこれをなし得るものではあるが、判決をした場合、調書判決書を以つて判決書に代えることができる場合(刑事訴訟規則第二百十九条)の外は、判決をした裁判官が判決書を作成しなければならないのであつて(同規則第五十三条第五十四条)この判決書を作成しないときは訴訟手続上の法令違反となるものと解すべきであるところ、判決書には「裁判をした裁判官が署名押印しなければならない。裁判長が署名押印することができないときは他の裁判官の一人がその事由を附記して署名押印し、他の裁判官が署名押印することができないときは裁判長がその事由を附記して署名押印しなければならない」(同規則第五十五条)のであつて、この手続の完了を待つて初めて判決書が裁判官の作成した判決書として成立するものと言うべきであり、合議制裁判所の裁判官全員或は単独制裁判官が判決書に署名押印することができない場合には、その措置につき何等の規定がなく、従つて判決書が裁判官の作成した判決書として成立するに由ないものと解さざるを得ないのであり、たとえ判決をした裁判官が判決書の草稿を作成しその草稿によつて浄書又は印書された文書ができたとしても、更にまたこのような文書に判決宣告期日の公判に立会つた裁判書記官が裁判官が署名押印することができない事由を附記してその文書が宣告された判決の判決書であることを認証したとしても、これを以つて裁判官の作成した裁判書或はこれに代る効力を有するものとなすことはできないのであるから、結局本件につき原審は法令によつて要求されている判決書の作成をしなかつたものとして訴訟手続に法令の違反があると言わざるを得ないのである。
として、署名押印がないことは違法であるとしている。
署名押印1つをとっても、このようなエピソードが豊富にあるのである。
5.興ざめな「差し支え」
ところで、このような観点からは、興ざめな理由が「差し支え」である。これは、昔もあったのだが、最近特に目につく。実務上は、「差し支え」と書いても署名押印できない事由の付記として適法と解されている(大判大正8年5月3日民録25輯814頁)。しかし、法律の元々の趣旨に遡って考えてみる必要があるのではないだろうか。署名押印ができないということは、その裁判官が署名押印をすることに差し支えているのは当然であり、法が理由の付記を要求したのは、ただ「差し支え」というだけではなく、具体的な理由を書けという趣旨でなかろうか。
こういう法律的なことをさておいても、真の理由が書かれないことは、非常に残念である。私も1件、絶対に真の理由が産休*14なのに、「差し支え」と書かれた事案を知っており、「産休と書けばいいのに」と思った経験がある。
裁判官の皆様には、ぜひ、「差し支え」だけではなく、具体的な署名押印できない理由をお書き頂きたいものである。
まとめ
非常に人口が少ない、極めてマイナーな趣味に、「署名押印ができない理由」マニアというものがある。
サイ太先生が、同人誌において、このような、普段日が当たらない、「署名押印ができない理由」を取り上げてくださったことを、1人の「署名押印ができない理由」マニアとして、深く感謝申し上げる。
1/4付記:フォロワーの@62nd様から、ツイッターで本記事に関し、コメントを頂戴しました。これを受け、修正させて頂いております。大変有益なコメント、感謝しております。
1/4付記:サイ太先生のゴ3ネタにご紹介頂きました。ありがとうございます。
2013-01-04 - ゴ3ネタ[ゴ3]
ご指摘を踏まえて加筆させて頂きました。ありがとうございます。
なお、「転官」は官職を転じることなので、検察官になる場合だけに限られないと思います。実際は大部分が検事になっていますが、法務事務官(まあ、訟務「検事」ですが)になる方等法務省の民事畑に転じる方も「転官」とされることが多いようです。
*1:ブースの装飾にまでリーガルチェックを欠かさない、素晴らしいプロフェッショナリズムである。
*2:「裁判傍聴」本串刺しレビュー - アニメキャラが行列を作る法律相談所withアホヲタ元法学部生の日常参照
*3:真面目な研究書に、西川伸一「裁判官幹部人事の研究 「経歴的資源」を手がかりとして」があります。
*4:これを「異動」と称するのは、東京地判平成20年5月14日 判例時報2012号151頁等少数。
*5:なお、検察官や官庁の職員等、他の官職に転じる「転官」という場合もある。なお、「転補」は他の官職へ転じる、ないし転任させることであり、意味としては転官又は転任と同じ。
*6:例えば、那覇地沖縄支決平成18年8月31日労働判例945号33頁
*7:例えば、東京地判平成4年4月27日判例タイムズ793号251頁
*8:神戸地判昭和53年12月25日判時935号137頁及び福岡地判昭和53年3月28日判時898号75頁
*10:東京地判平成10年12月21日判例タイムズ1045号194頁
*11:公刊されていないものを含めば、実際にはもう少しあるのだと思いますが。
*12:民事訴訟法252条があるので、原本に基づき言い渡しをしなければならない民事訴訟と異なり、刑事ではこのタイムラグがあり得る。
*13:仙台高秋田支判昭和27年4月22日高等裁判所刑事判例集5巻4号623頁、名古屋高判昭和31年2月20日 高等裁判所刑事判例集9巻4号352頁、東京高判昭和37年5月1日下級裁判所刑事裁判例集4巻5〜6号351頁、東京高等判昭和37年5月10日高等裁判所刑事判例集15巻5号331頁、大阪高等判昭和46年11月29日 判例時報673号94頁
*14:お腹が大きかった