- 作者: 池井戸潤
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2010/11/24
- メディア: ハードカバー
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1.下町ロケットとは
ロケット発射に失敗して詰め腹を切らされた元JAXA研究者。彼が夢を追いかけるのをやめ、父親の経営していた小型エンジンを作る中小企業、佃製作所の社長に転じてはや7年。
佃製作所は、R&Dの一環としてロケットエンジン用バルブの特許化を成し遂げたが、メインバンクは当然嫌な顔をする。
そんな時、主力取引先の1つに契約を切られ、更に、自社の小型エンジンが大企業のナカシマ工業の特許を侵害するとして訴えられた!
運転資金の融資をメインバンクに断られ、顧問弁護士も頼りない。万事休すか?!
という物語である。本年の直木賞受賞作として有名である。
個人的には、メインバンクから紐付き出向で佃製作所に来ている殿村CFOの運命も非常に興味深かったが*1、知財戦略の本としても非常に優れている。
2.第一条 権利化は可能な限り包括的に
優れた日本の企業のイノベーション。しかし、新規開発に優れている企業は、必ずしも、権利化に優れているとはいえない。俺たちは第一線を行っているから、特許なんて気にしなくていいと思っていると、佃製作所のようになりかねない。
下町ロケットは、この点を神谷*2という優れた弁護士の言葉でこう語らせる。
技術そのものは素晴らしいですよ。でもね、それと特許の良し悪しは別問題なんです。
(中略)
仮に私がコップというものを発明したとします
(中略)
これをどう表現しますか。そもそも特許というのはいままでにない発明品なわけですから、それをどう説明し、定義するかが問題になってきます。中が空洞になっている円柱状の物体で、底があってプラスチックでできているーと書いて特許を出願したとします。さて、それでいいでしょうか」
「正しいような気がしますが、それではだめなんですか?」
「結論からいうと、それではいい特許とは言い難いですね」
神谷はいった。「その特許が認められた後、たとえばプラスチックじゃなくて、ガラスでできたものを作った人が出てきたらどうでしょう。あるいは円柱ではなく、角があるものを作った人が出てきたらどうですか。この二つは特許違反になるでしょうか」
神谷は、佃たち三人の顔をじゅんぐりに見回した。「結論をいうと、最初に取得された特許は円柱状のプラスチックでできていると定義しているわけですから、それを根拠に、特許権侵害を問えるかどうか難しいということになります」
「なるほど」
佃はうなずいた「つまり、ウチの特許にもそれと同じようなことが起きているというわけですか」
「お察しの通りです。佃製作所で取得した特許はもちろん新しいコンセプトの、素晴らしい技術だと思います。ところが、その特許に穴がある。ナカシマ工業がその後に取得した特許は、いってみればその穴を突いたもので、さらに周辺をうまく固めて抜けがないようになっている」
ひろげた訴状を指先でトントンとやりながら、神谷の弁に熱が入ってきた。「コップというコンセプトそのものを発明したことがどれだけ素晴らしくても、佃さんの特許はそれを十分に生かし切れていません。円柱状でプラスチック製だと定義したことで、範囲を狭めてしまったんですよ。ナカシマ工業の特許はその穴をついて、様々な形の、様々な素材まで含めた包括的な特許申請をしているわけです。そうすると、佃さんが次に角柱のコップを製作すると、それは特許侵害だということになってしまう。いま起きている特許訴訟はそういう構図になっているわけです」
池井戸潤「下町ロケット」86頁
この本のこの部分は、知財戦略について、私がいままで読んだ本の中で一番わかりやすく本質を説明していると思う*3。
ビジネスモデル特許*4は例外だが、試作・製造しているうちに権利化した特許よりも、実施している製品が「良い」製品になっていることが多い。
これを改良に歩みを合わせる形で権利化していれば良いのだが、 佃製作所は、権利化に失敗して倒産の危機に瀕した。
倒産までいかなくとも、無駄な特許紛争に巻き込まれたり、他社に模倣品を合法的に作られたりという問題が起こりかねない。
結構良さそうな企業を買おうとDDをしたら特許がダメダメで、相当ディスカウントされたり、場合によっては破談*5にといった話も耳に入る。
特許を取る場合はできるだけキー技術を中心に付随的なものも含め包括的に取り、その分野を押さえることが望ましいと言えます*6。顧問先の弁理士の先生がそういうことまで考えているのか確認し、必要があれば他の弁理士の先生のセカンド・オピニオンを取ることも検討して良いでしょう。
3.第二条 知財を知っている弁護士に早期に関与させる
佃製作所は、特許権侵害との内容証明を受けて、技術者だけで交渉して、訴えられて大慌てになった*7。これは、身近に特許権について相談できる人がいないということを示しており、特許の取り方のまずさとあいまって、ナカシマ工業にはますます「カモ」に見えただろう。
顧問弁護士は必ずしも特許の専門家でなくともよい。顧問弁護士を通じて紹介を受けたり、顧問弁理士つながりでも良い。とにかく「その技術分野*8に詳しい弁護士*9」にいつでも気軽に相談できる体制が大事であろう。
こういう体制であれば、訴状がきてから大慌て、顧問弁護士が使えないことが法廷で分かって青ざめるといった本書のような状況にはならない*10。
内容証明段階で実質的な「答弁書」の準備ができていれば、裁判期間も短くなり、早期に裁判を終結させる効果がある。確かに最高裁まで1年で確定することは不可能だろうが、一審勝訴だけでもアナウンス効果は大きいので、一審で勝って「ナカシマは行儀悪く控訴して引き伸ばしてる*11」とでも言えば、受注も回復するだろうし、銀行融資も受けられるだろう。
なお、本書では、技術者出身弁護士最強説をとっているように読めるが、実際はそうとは限らない。もちろん技術者で同じ分野を勉強されている方で弁護士になられた先生は心強いが、文系出身でも技術を熱心に学ばれてよく本質を理解して裁判官に分かる言葉に「翻訳」できる素晴らしい知財ローヤーの方がいらっしゃることも事実である。
4.第三条 特許権譲渡、ライセンスアウト、製品化の優劣を検証
帝国重工からバルブ特許の譲渡ないしライセンスを依頼された佃。しかし、佃は、「自分の作ったバルブを宇宙に打ち上げたい」という思いから、製品納入にこだわる。
特許の活用方法は様々である。特許権を譲渡するのは1つの方法であり、欲しい人がいれば、数十億の価値がつくこともある*12。眠らせるくらいなら売ったほうがずっと良い場合も多い。
しかし、特許を譲渡して、自分で製造しないとすると、製造の中でノウハウを得て改善、ひいては新たな特許のヒントにするということが難しくなる。
ライセンスアウトの場合、条件によっては非独占的通常実施権の形で、自分でも使えるし、第三者にも使わせられるという契約もあり得る。
もっとも、競争力を維持したいという相手方にライセンスするなら、専用実施権か独占的通常実施権になるのではないか。
製品納入は、一番リスクを負うことになる。ある日突然「君の所のものはいらない」と言われる可能性もある*13。不良品を入れて、損害賠償もこわい。反面、実施の中でノウハウを得て、他に展開するとかは一番やりやすい。
私は、製品納入に反対する社員の気持ちも理解できる。ロケットの特許をなんか売ってその金で小型エンジンの技術開発をさせてくれと叫ぶ現場の技術者の気持ちはよく分かる。ただ、反対に、製品を納入して、ノウハウを学んで展開するという方向もアリだ。
正直なところ、展開の具体的展望もないのに製品納入に走った佃社長の経営者としての判断はちょっと危なっかしいと思うところがある*14が、いずれにせよ、これら主に3つの選択肢から、何が10年後20年後の自社発展にとって望ましいかという観点から検討する。これが、権利化後の特許戦略の基本である。
まとめ
知財をかじると、「下町ロケット」は、中小企業が大手相手に侵害訴訟で電撃和解して56億円の賠償金なんてねーよと見る節もあるかもしれない。
確かにそれは物語のドラマチックさのためのフィクションに過ぎないが、そういう細かいところにこだわると、本書の本質は見えなくなるのではないか。
少なくとも、知財戦略の基本という限りでは、本書は非常に分かりやすく本質を突いており、知財選択のロースクール生は必読といって良かろう。
*1:「あの」シーンはフィクションとしては優れてますが、現実にそこまで言えるのは相当の人物でないと無理ですね…。
*2:西新宿の弁護士ビルに事務所を持っているという設定だが、私も弁護士ビルに相談にお伺いしたことは何度もある。
*3:同じくらい分かりやすいと思ったのは二十年前の特許法入門〜濃厚かつ分かりやすい伝説の一冊 - アニメキャラが行列を作る法律相談所withアホヲタ元法学部生の日常だが、いかんせん古い。
*4:一時期はITバブルとかいってとにかく特許さえとればそれを評価してくれるということで特許は取るが、実際はビジネス上の工夫をこらすうちに、いつのまにか特許とは全然違うビジネスをしていて、「先生、後発企業がうちのビジネスをまねるので、特許権侵害で訴えてください」といったものの、自社の現在のビジネスをいくらまねしても自社のビジネスモデル特許違反にはならないという話をよく聞きます。
*5:うちの技術は世界一なのに、ディスカウントとは何事だ等
*6:そんなことを言っても現実には他社技術が特許をずらっと押さえているので、穴の部分にちまちま特許を嵌め込むだけなんですといった現実があるのは事実ですが、それを理解した上でそうするのと、佃製作所みたいにダメダメ弁理士に最先端技術をゴミ特許にされ、結局大企業に食われそうになるというのは全く違う話です。
*7:38頁
*8:生物分野に詳しい人が機械に詳しいとは限らない。
*9:弁理士の先生でも良いが、訴訟になった場合に、訴訟戦略まできちんとできる弁護士を紹介してもらえるのが前提(弁理士の先生には補佐人になっていただく。)
*10:本書の先生も悪い弁護士ではないと思うが、優秀な専門家と共同受任するといったことを考えなかったのは失敗だと言わざるを得ない。その分野に暗い顧問弁護士の先生がが専門家の弁護士を助っ人に呼ぶことで、その顧問弁護士の先生の信頼を維持するといった事例はちらほら聞く。
*11:なお、賢明な読者の方はご存知だろうが、上訴は権利である。あくまでも素人向けのアナウンスという意味である。
*12:ただ、評価が難しいので、架空取引とかに使われることもありますね。特許権の現物出資とか…。
*13:継続的契約の解除って問題はありますが
*14:なお一人のロケット技術者としての思いは理解できる