アホヲタ元法学部生の日常

連絡はTwitter ( @ahowota )でお願いします。アニメを見て法律を思い、法律を見てアニメを思う法アニクラスタ、ronnorのブログ。メールはronnor1あっとgmail.comへ。BLJにて「企業法務系ブロガー」として書評連載中。 #新人法務パーソンへ #オタク流勉強法 #明認方法 「アホヲタ元法学部生の日常」(ブログ)、「これからの契約の話をしよう」(同人誌)、『アニメキャラが行列を作る法律相談所』(総合科学出版)等。

比較不能な価値の迷路

比較不能な価値の迷路―リベラル・デモクラシーの憲法理論

比較不能な価値の迷路―リベラル・デモクラシーの憲法理論

 id:Raz様に刺激されて、長谷部論文集を読んでみた。本書は、国家権力の正当性・民主政に関する長谷部先生の90年代の論文を11本掲載し、中には、その後の批判をふまえて補論をつけたものである。これまで、私はハセビアンを自称してきたが、長谷部本についてこのblogで語ったことはなかった。唯一法学教室10月号 - アニメキャラが行列を作る法律相談所withアホヲタ元法学部生の日常において、長谷部連載を批評(つーか絶賛)しただけであった。
これではだめだろう。ということで、Raz様がhttp://d.hatena.ne.jp/Raz/20051003/p4で言及されていた、「比較不能な価値の迷路」について、書評を書いてみよう。


 まず、内容は憲法本とは思えない程、思想家・(法)哲学者等の議論にあふれている。ルソー、ハート、ヴィトゲンシュタインロールズ、ローティ、コンドルセ、そしてラズ(Raz)...。彼らの言説が、憲法に対し示唆するところを鋭く論じられている。
 また、いつも通り、「どこに連れていかれるか分からない上質の興奮」が味わえる。憲法と全く無関係そうな、国家の必要性、コモン・ロー等から話を始めて、最後に憲法の解釈へ示唆を与えるこの長谷部先生の手法。いつか、どこかへ連れていってもらえる。しかし、終点は、長谷部先生のみぞ知る。わくわくしながら読み進める。ページをめくる毎に、新しい地平線が見えてくる。そして、最後に到達するのは一面の海と空! こういう興奮は、長谷部論文の特徴である*1
 とはいえ、教科書や、雑誌(まあ、法教だもんな)の連載と比べると、めちゃくちゃ難解である。特に、思想的な概念を何の説明もなく使うので、そこで私の頭では論理が飛ぶこともあった。通読するまで、何度も何度も読み返すという経験を久しぶりにした(だからこそ、達成感も大きいのだが)。


 特に鋭いと思ったのは,以下の指摘である。

もっとも、現代国家における行政立法および行政裁量の各題は、政府の任務の各題と議会の能力の限界によってのみ説明されるわけではない。政府の任務を、組織化された処利益の相互調整と実現に求める利益集団自由主義(interest-group liberalism)あるいはコーポラティズム(corporatism)の立場からすれば、個々の立法は、特定の利益集団と議会多数派との協定に他ならない。ある集団が票と資金を提供するかわりに、その利益を擁護し増大させる法律が制定される。しかし、立法の執行について、独立の司法部の解釈を許すならば、たとえその解釈が立法の敬意において公にされた目的に忠実であっても、その背後にある利益集団と議会多数派との協定の趣旨には反する解釈がなされうる。これに対して、法律の規定を一般的な枠組みにとどめ、具体的な規定と執行を行政立法および行政裁量に委ねるならば、議会は司法部の介入を限定し、より容易に協定の実現をコントロールすることができる。行政官僚が専門的・技術的知識をもち、政治的中立性の外観を保つ義務を負うことは、彼らが利益集団からの圧力に対して免疫を有することを意味しない。むしろ、利益集団からの圧力に対抗しえないほど政治権力および官僚機構が弱体であるからこそ、現代国家の任務が拡大を続けることになる。
引用元:「比較不能な価値の迷路」p161

これは、今までの常識を大きく覆す言説であり、非常に面白かった。


さて、多少無謀にも、長谷部議論に補足をしてみたいと思う。

 長谷部先生は、まず、「経済統制立法」は「私的利益の実現を目指している」という、現実的な見方をすべきだと主張される。それはその通りであろう。例えば、旧薬事法の距離制限規定は、「既存薬局の既得権益擁護」のためにできたといえよう。

 そうすると、例えば、前述の薬事法のように「本当は権益擁護の目的」なのに、表面上は「公益増進」という目的が掲げられれば、正確な情報が得られなくなる。これでは、「透明で公正な環境の下で利益集団相互の競争が行われ」ない。そこで、警察・消極目的の場合には、厳しく合理性を審査すべきとなる。これによって、正面から権益保護をうたって交渉することへのインセンティヴを与える。
 これに対し、正面から権益保護がうたわれれば、その法律が制定されたのは、まさに「国会が本来果たすべき交渉と妥協」の結果ですから、裁判所は立ち入った審査を行うべきではないとなる。

その上で、

最高裁がなぜ租税法規について緩やかな違憲審査を行うかという問題についても、判例が文面上掲げる租税法規の専門性、技術性という理由だけではなく、租税立法の政治過程によって説明できる部分がある。租税法規も、多様な利益集団の抗争と妥協の結果としての性格を多分にもつ。租税法規は、専門的技術的な法分野であるばかりではなく、立法府の「政策的判断」に多くを委ねざるをえない分野でもある。ここでも、裁判所が立法府の判断に、自己の判断を置き換えるべき根拠はにわかには見出しにくい。
引用元:前掲書p110

こうおっしゃる。

 もちろん、長谷部先生の議論は鋭いし、これまでの「専門性、技術性」を重視した学界への痛烈な批判となっているのは分かる。
 しかし、なお「専門性、技術性」もこの判例の判断の重要な理由として維持すべきだということを長谷部先生は補足された方がよいと思う*2

 長谷部先生は、同書p126で、権威についてのマルモーの言説を論じる。

人々が権威の指示に従った方が、本来自分がとるべき行動をよりよくとることができる状況には、2つの類型がある、一つは(中略)人々がいかに行動すべきかについて権威の方がよく知っている場合であ(る)
引用元:前掲書p125

 その上で、「専門的知見」が立法の正当化根拠となっていれば、この専門的知見があるからこそ、人々はこれに従うべきだという、「人々がいかに行動すべきかについて権威の方がよく知っている場合」だとされる。


この長谷部見解を前提とすれば、専門的・技術的な立法については、その立法が「専門的知見」から合理的に導かれるものである限り(Xという物質が発ガン性があるからといって、Yという物質を規制するのは意味がない)、立法府の判断(権威)を尊重すべきということになると考えられる。
そして、そうであれば、税法に関する判例の正当化根拠として、利益集団の妥協結果だという理由となお「専門性、技術性」があるという理由が双方重要なものとして存在すると考えるべきだろう。
この点が分かりにくかったので、もうちょっと分かりやすく示してもらいたかった。

まとめ
 「比較不能な価値の迷路」はハセビアンにとっての聖典であるが、ハセビアンを増やすためにも、新版を出す際にはもう少し補足を加えていただきたい。

*1:私も、このような文章を書きたいと思っているのだが、いつになったらこういう文章が書けるのか...。

*2:まあ、頭のよい方では「という理由だけではなく」で分かるのでしょうが...。私には...。