- 作者: ゴツボ×リュウジ
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 2002/06
- メディア: コミック
- クリック: 23回
- この商品を含むブログ (62件) を見る
ササメケというのは、サッカー漫画である。イタリアにサッカー留学した楽市は、ワガママで協調性がなかったために失意の帰国をする。都落ちした楽市と、謎の美少女マイコの関係...。といった感じの漫画である。
これと憲法は関係がなさそうだが、実は関係がある。マイコは怪しい校内新聞を勝手に貼ろうとしていた(p70)。桃山先輩は「こーゆーのを許可なく貼るなっつーの...」「何が新聞やねん あんなんただの怪文書やんけ!」といって争いが起きた。この争いは、表現の自由に関して生ずる典型的な争いなのだ。
表現の自由は、情報の伝達に関する活動の自由といわれる。人は口頭、文書、メディアを通じて...思想・芸術・事実といった情報を伝えようとする。これを自由にさせなさい。これが憲法21条なのだ。
憲法は、なぜ表現の自由を保護したのか。これには大きく分けて2つの理由がある。
- 自己実現の価値
1つ目は、ササメケに出てくる詩人マイコのことを考えると分かりやすい。
それより コレは 何?
ああ舞子の新刊やん
新刊?
あいつ詩人やねん
詩人? まじで!?(中略)
最初はなんか小っこい雑誌にちょこっと載る程度やったらしいけど サブカル雑誌とかに取り上げられたり.....あのルックスも手伝ってあれよあれよと言う間に売れっ子作家に
引用元:コツボ×リュウジ「ササメケ第一巻」p139〜
憲法は、一人ひとりの個人は人生の目標をもち、その目標に向かって一歩一歩と歩みを進める存在であると考える。そして、その人がその目標に向って歩みを進めるのを国は尊重すべきで、妨害してはならない。
そして、アーティスト(例:マイコ)を考えると分かりやすいが、アーティストにとって表現をするというのは、この目標達成への歩みそのものである*1。
だからこそ、表現の自由は重要であり、国家は表現の自由を侵してはならないのだ。この「表現が目標への歩みそのもの、ないしこれと密接不可分であるから表現の自由が大切だ」ということを、学者は難しい言葉で「表現の自由には自己実現の価値がある」という。
- 自己統治の価値
さて、問題はもう1つある。例えば、マイコが貼ろうとしていた校内新聞が生徒会選挙に関する内容だったらどうなるだろう。生徒会の会長選に現会長Aと対抗候補Bが出馬したが、マイコが、Aの不正を校内新聞にすっぱ抜いて、その校内新聞を貼ろうとしていたとしよう。この新聞の掲載を、現会長Aが禁止したらどうなるだろう? 生徒は正しい情報を与えられず、公正な選挙が害されてしまう。このように、民主主義社会においては、選挙で誰を選ぶかの参考となる情報が自由に流れていなければ、国民は正しい選択ができなくなってしまう。そこで、情報流通の自由である表現の自由が重要なのだ。この「民主主義の維持・運営のためには表現の自由が大切だ」ということを、学者は難しい言葉で「表現の自由には自己統治の価値がある」という。
- 違憲審査基準
もちろん、表現の自由が全く不可侵な訳がない。表現の自由は他の人の権利とバッティングすることもある。例えば、最初の校内新聞を貼る貼らないの事例では、マイコは「学校の物」である壁に勝手に新聞を貼ろうとしていた。美観や学校の管理権等と、新聞を貼るという表現行為はバッティングするのである。そこで、表現の自由にも何らかの制限がかかるのはしょうがない。
しかし、前述のように表現の自由が重要な意味を持つからこそ、表現の自由を規制する立法等については「基本的に違憲」となるような厳しい違憲審査基準が使われる。
代表的なものに、検閲禁止、事前抑制の法理がある。
検閲禁止は、国家が「検閲」をしたらその瞬間に違憲というものである。問題は「検閲」が何かという問題だ。これは、「行政権(内閣、各官庁だと思ってください)」が主体となって、「発表禁止」を目的として網羅的に発表前に内容を審査することです。例えば、戦前は(ほぼ)全ての本は、出版前に行政によって発表前に、変な(マルクス主義、猥褻等)内容が載っていないか検査され、問題がある場合には塗りつぶしをさせて初めて出版が可能となっていた。
大切なのは「実際に検閲禁止にひっかかりそうな制度は現在存在しない」ということである。それは、判例が検閲の意味を狭く狭く解しているので、ほとんど検閲にならないのだ。
そこで、実際に重要になってくるのが事前抑制の法理である。これは、発表前の抑制を原則として許さないという基準である。例えば、裁判所が、名誉毀損になりそうな表現物の出版を出版前に禁止すること等が問題となります。この場合には、原則禁止ですから、厳格な要件の下、例外的に可能としていくことになるだろう。
- パブリック・フォーラム論
パブリック・フォーラム論とは何でしょうか。一般公衆が自由に出入りできる道路・公園・広場といった場所は、表現の場として役立つことが少なくない。このような場所がパブリック・フォーラムである。例えば、演説をしたり、ビラを配ったり等々です。もちろん、道路には交通という目的がある等、本来の利用目的があり、その目的達成のための管理権による制約がある。例えば、道のど真ん中で演説をされたら、交通を害しますから、「演説をするなら端でしろ!」といわれるのはわかるだろう。
しかし、この制約を受けざるを得ないとしても、パブリック・フォーラムについては、表現の場として役立つという機能を考えれば、できるだけ表現の自由に配慮しなければならない。これがパブリック・フォーラム論です。
冒頭の事件も、確かに学校の管理権はあっても、学校の壁は、パブリックフォーラム的性質があるので、このことを考えれば、マイコの表現を重視し、学校は、「学校のほかの壁に貼るように」指導できても「壁に貼ること事態を禁止する」ことはできないというべきだろう。
ただし、このパブリック・フォーラム論は、最高裁判決の「補足意見」として述べられたもので、未だに最高裁判決が採用した訳ではないので注意すべきである。
まとめ
表現の自由:自己実現の価値と自己統治の価値の2つがある
→だからこそ経済的自由権より厳格な違憲審査基準を用いるべきと言われる
「行政権」が主体となって、「発表禁止」を目的として網羅的に発表前に内容を審査することは違憲(検閲禁止)
発表前に抑制する事前抑制は原則禁止であり、厳格な要件で例外が認められる
一般公衆が自由に出入りできる道路・公園・広場といった場所での表現は利用目的達成のための管理権等の制約があるにせよ、できるだけ表現の自由に配慮しなければならない(パブリック・フォーラム論)
追記:http://blog.livedoor.jp/dakapai92/様、書いてみました。もうちょっとネタ度上げた方がいいですかね?