注:元々のエントリがわかりにくいようなので1/29に書き直した。
- 作者: 金井重彦,小倉秀夫
- 出版社/メーカー: 東京布井出版
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2007-01-27 - カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記/はてダ版様によると、著作権法違反の非親告罪化の動きがあるらしい。
非親告罪化の話の出所は第8回知的創造サイクル専門調査会の議事資料(中略)
海賊版対策として出てきたもので、営利目的又は商業的規模など一定の場合に限る
2007-01-27 - カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記/はてダ版より
*1著作権法違反のうち営利目的がある等の重大な場合について、著作権者の告訴なくして、著作権侵害者を有罪にできるという改正である。つまり、著作権者が「別に処罰しなくてもいいんじゃない。」と思っている著作権法違反事件でも、警察が勝手に捜査して、*2勝手に起訴し、それで有罪にすることが可能になるのである。
親告罪とは、被害者が告訴(犯罪があったことを告げ、加害者の処罰を求めること)しないと、犯人を起訴できないという犯罪である。ところで、刑法上、告訴がなくとも起訴ができるのが原則であり、親告罪は例外に過ぎない。例えば、窃盗は親告罪ではない。そこで、理屈から言えば、10円のものの万引き事案で、被害者が処罰しなくてもいいと思っているのに、検察が起訴するということはありえる*3。このように、刑事上は通常は被害者は訴追をするかどうか決められない。
それにもかかわらず、著作権法は、著作権法違反を親告罪とする。著作権法123条は、「第百十九条、第百二十条の二第三号及び第四号、第百二十一条の二並びに前条の罪は、告訴がなければ公訴を提起することができない。」としているのである*4。
なぜ、著作権法は、その違反を親告罪としたのだろうか。
2.著作権法違反が親告罪の理由
親告罪は「被害者の名誉の尊重」、「軽微犯罪について被害者の意思を尊重」、「家族関係の維持」という目的のためにつくられたものというのが伝統的見解である*5。
名誉尊重のため親告罪になったものとして強姦罪、被害者意思尊重のためのものとして器物損壊罪、家族関係の尊重として親族相盗*6というのが挙げられる。
さて、著作権法が親告罪である理由は何か。当然、家族間で著作権侵害がされる場合は例外的であるから、家族関係の尊重ではない。また、著作権が侵害されることは、一般に著作権者の名誉を害するものとも言えない*7。すると、趣旨として最も近いのは軽微な犯罪についての被害者意思尊重であろう。
ただ、ここで「軽微な犯罪について」という点を過剰に意識すべきではないだろう。田宮守一先生は、
訴訟外における事件当事者による紛争の解決をもって、刑事司法上の事件の解決とみなすことができるから
田口守一「親告罪の告訴と国家訴追主義」「宮沢浩一先生古稀祝賀論文集・第一巻・犯罪被害者論の新動向」p258
という理由で、親告罪については、告訴なくして起訴できないとされる*8。要するに、重要なのは、「紛争が解決し、被害者が処罰を求めないのならば、その被害者の意思を尊重しよう」という部分なのである。
そもそも、著作権法違反が行われた場合の著作権者への影響は、マイナスばかりではなく、プラスになる場合すらあり、非常に複雑である。例えば、「涼宮ハルヒの憂鬱」事案におけるyoutube等、動画投稿サイトへのアップロードは、著作権法違反であるが、これが客観的にみて、本やDVDの売り上げ向上に貢献したことは否定できないだろう。また、作者が自分の作品の同人誌を楽しむ事例も存在する*9。
著作権がノーという著作権侵害は、きちんと刑事罰等で制裁を受けなければならないが、著作権者が黙認しているものに、あえて刑法が介入する必要があるのか、これが重要な問題意識である。
著作権者の著作権法違反に対する反応としては、
(a)怒り、著作権侵害者の訴追・処罰を求める、
(b)怒るが、著作権侵害者との交渉により解決*10し、処罰まで求めない、
(c)怒るが、訴追を求める程の怒りではないので、処罰を求めない、
(d)怒らない、ないしむしろ喜ぶ
という4つのパターンがありえるだろう。
著作権法がその違反を親告罪にしたのは、このうちの(a)のパターンにおいて起訴すればよいのであり、それ以外の場合には国が刑罰をもってして処罰するほどの紛争は存在しないのだから、起訴は不要という趣旨と考えられる*11。
119条の保護法益は、著作者人格権、著作権、出版権、著作者隣接権といった私権であるから、その保護について(中略)法益主体たる著作者の判断に委ねることにした。
金井他「著作権法コンメンタール」下巻p315
と説明されている。この説明は、著作権者と侵害者の間で紛争が解決すれば、著作権の問題は私権の問題なんだから、起訴は不要という意味で、上記田口の説明と整合的に解することができる。
なお、注意すべきは、この理は営利目的と非営利目的で大きく変わるとものではないということである。確かに、営利目的であれば、(c)の場合が減り、(a)(b)の場合が増えるということは言えるだろう。しかし、(a)の場合、すなわち怒り、訴追を求める場合であれば、まさに告訴がある場合で、現行法でも十分起訴が可能である。また(b)の場合、すなわち交渉で解決する場合であれば、紛争は解決しているのであり、被害者の意思に反してまで*12訴追をする必要はない。特に、同人誌等、営利目的と非営利目的の違いが非常に微妙であることを考えれば、営利と非営利で大きな差をつける意味は薄いというべきである。
まとめ
親告罪というものの趣旨にさかのぼって考えれば、著作権法違反のうち、営利目的等のあるものを非親告罪とする改正の根拠が薄弱であることが分かる。
付記:このエントリの結論は「従来の著作権法の枠組み」を維持する限り、著作権法違反のうち営利目的等一部を取り出して非親告罪化することは不合理だというものである。従来の枠組みを吹っ飛ばし、著作権法違反は、当事者間で紛争が解決しただけで国が処罰できなくなるようなやわな犯罪ではない!! 著作権の侵害は、単に著作権者の私権の侵害のみならず、一国の文化という公共的利益の侵害でもあるんだ!として、現在では立法当時の親告罪とした趣旨があてはまらなくなっているから非親告罪にするといった改正に対し、このエントリの議論は正面から反論していない。ただ、本当にそんな従来の枠組みをぶっ飛ばす改正をするだけの立法事実があるかは疑問である。著作権の問題は、「著作権者を保護しすぎると、(パロディや引用等が抑制され)新たな表現が出にくくなる」「著作権への挑戦者を保護しすぎても、(表現しても、どうせだれかにパクられるとなって)新たな表現が出にくくなる」という2つの利害の「拮抗する関係の調整」にあるのであり、「著作権の侵害は私的な問題ではない! 公益的な問題だ!」とするのは、あまりにも著作権者保護に傾きすぎ、逆に健全な文化の発展を阻害する考えではないだろうか。
なお、構成の全体において黒澤睦様の黒澤睦のホームページ/黒澤睦「親告罪における告訴の意義」法学研究論集第15号(明治大学大学院,2001年9月29日)1-19頁を参考にさせていただいた。この場で謝意を表する。
*2:検察が
*3:当然、被害者の処罰意思は警察や検察が処分を決める際に考慮されるので、実際には、被害額が僅少で被害者が処罰して欲しくないという場合には起訴されることはまずないが
*4:なお、親告罪とされていないものとしては、例えば120条の2第1号の技術的保護手段の回避を行うこと(いわゆるプロテクト解除)を専らその機能とする装置を公衆に譲渡等した場合といった、「誰が告訴権者かわからない」場合や、121条の著作者でない者の実名等を著作者名として表示した著作物の複製物を頒布するといった、「公衆」もまた被害者である場合等です。
*5:三分説。なお、家族関係の維持を重視しないのが二分説。
*6:一定の親族間で窃盗等の犯罪が行われた場合には、親告罪とされている、244条2項参照
*7:キャラクターの過激なポルノ化等、一部名誉を害する場合があることは否定しないが、例外的である。なお、親告罪である119条は著作者「人格権」侵害のみならず、著作権、著作隣接権等の財産的な権利もまた保護している条文であることに注意。
*8:なお、田口先生は伝統的な二分説、三分説を批判し、これらの3つの理由だけでは国家訴追主義抑制する理由にならないのであり、紛争解決が一番の趣旨だという文脈でこの表現を使っていることに注意。
*9:著作権者ではないので、あんまり適切な事例ではないが、http://d.hatena.ne.jp/Raz/20061223/p9等
*10:削除、出版停止、賠償の支払い等
*11:また、ある行為が著作権侵害かは非常に微妙な問題である。例えばある人の伝記であれば、その人の著作物の引用がかなりの部分を占めるだろう。パロディにおいても、元の作品を「使用」することは必要になってくる。これらの事例は、特に「線引き」が困難な事例であるが、そもそも先人の遺産の「使用」なくして著作物の創造は不可能なのだから、著作権侵害か否かの判断の微妙さは、著作権侵害において不可避的に発生する問題である。そこで、この判断をまずは一番著作権侵害の有無に利害関係を持つ著作権者にまかせ、「著作権者すら著作権侵害でないと思って告訴しない」という場合には、国があえて起訴する必要はないという趣旨も併せて考えることができるのではないか。
*12:賠償の支払いを受けたり、削除させても、だからといって告訴できなくなる訳ではないことに注意。