アホヲタ元法学部生の日常

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故意と違法性の意識

故意と違法性の意識

故意と違法性の意識

故意責任の本質&違法性の意識に関しての論証としては、以下のようなものがよく使われるのではなかろうか。

故意責任の本質は、反規範的人格態度に対する非難である。そして、構成要件に該当する事実を認識すれば、通常反対動機を形成できるのだから、構成要件該当事実を認識しながら、あえて行為に出た場合には、これを反規範的人格態度の表れとして、重い故意責任を問いうる。もっとも、構成要件該当事実を認識しながらも、違法性の意識を欠いたことに過失すらない場合には、行為に出たことを反規範的人格態度の表れとは言えず、故意(ないし責任)は否定されると解する。

 (新)司法試験を目指す人の中にも、その内容を深く検討することなく、こういう論証を覚えて吐き出せばいいと思っている人いるやもしれない。
 しかし、事実的故意(ないし過失)と違法性の意識(の可能性)の「関係」を理解せずして、この問題の所在を理解できないだろう。山口厚教授の弟子として名高い*1高山佳奈子「故意と違法性の意識」は、両者の「関係」に着目して、一体なぜ事実的故意(ないし過失)と違法性の意識(の可能性)が刑事責任を認める上で(=刑罰を科すために)必要かを論じている興味深い作品である。


 責任要素を故意・過失に尽きるとする旧来の心理的責任論に対しては、故意、過失があっても適法行為に出ることが期待できないような事情があれば責任を阻却すべきであるといった批判がされた*2。そこで出てきたのが、規範的責任論である。これは責任を「非難可能性」として構成し、反対動機に従って違法行為を思いとどまるべきであったのに違法行為に出た場合に責任を認める*3考えである。
 多少正確性は落ちるが、この規範責任論を大雑把にまとめると、AがBの胸に向けて鉄砲をぶっ放して殺す場合において、「Bの胸に向けて鉄砲をぶっ放」すことを認識していたなら、これによってAは自分のやっていることが悪いということがわかり(違法性の意識)、その行為をやめようという動機付け(反対動機の形成)を心の中で行うことができる(提訴機能)はずであり、そうすべきである。にもかかわらず、あえてBを殺すという違法行為に出たことに対し、非難が可能であり、Aが殺人罪で処罰されるのはまさにこのことによるという議論である。
 この非難可能性の基礎*4とされたのが、違法性の意識である。悪いと分かっているないし、悪いと分かって当然の場合なら、やめるべき(=反対動機を形成すべき)であり、それでもあえて行為に出た場合には強い非難が可能なのである。
 ところが、殺人といった自然犯と異なり、行政取締規定に反する行政犯においては、客観的事実を認識していても、行為者がその行為が悪いとわからないという場合がかなりある。この場合に、行為者に反対動機を形成しろというのは困難である。とはいえ、単に法律を知らないというだけで罰せられなくなるというのでは、極端なことをいえば、「有罪になるのは法律家だけ」ということにもなりかねない。そこで、違法性の意識をどこまで要求するか、そして、この要素を犯罪の体系の中にどう位置づけるか、この点について学説は百花繚乱的になった。この学説を、高山教授は「故意と違法性の意思との関係付け」の点に着目して、以下の図のようにまとめる*5

二元説=(事実的)故意(ないし過失)と違法性の意識(の可能性)はそれぞれ独立した責任要素であると考える見解
 二元説A:事実的故意に加え、現実の違法性の意識が必要(厳格故意説)
 二元説B:事実的故意に加え、違法性の意識の「可能性」を要求する説(制限故意説)
 二元説C:事実的故意に構成要件要素及び責任要素としてのいわゆる二重の体系的地位を与えた上で、違法性の意識を独立の責任要件と呼ぶ(二重の体系的地位説かつ責任説)
一元説=反対動機形成の観点からは違法性の意識こそが本来的な責任要素であって、事実的故意は副次的な意義を有するにすぎないと考える見解
 一元説A:故意を体系上の責任段階から完全に除き、責任判断の対象として一切考慮しない
 一元説B:厳格故意説に立ち、かつ錯誤論における抽象的符合説を採用する見解
 一元説C:当該犯罪の違法性の意識を可能にするような事実の認識を故意とする
 →その主要な見解は「一般人ならば違法性の意識を持ちえる程度の事実の認識が故意」とする実質的故意論

 その上で、これらの説の両方をバッサバッサと切り捨てる


 紙幅の関係上、これらの痛快な記述を全て紹介できないが、ここでは、二元説の主張する、事実的故意の「提訴機能」に対する高山教授の批判を紹介しよう*6
 多数説によっても、いわゆる行政犯のような場合には、犯罪事実を認識しただけでは、違法性の意識ないしその可能性が必ずしも生じないことが認められている*7
 このことを前提に「可能性」説、即ち違法性の意識がなくとも故意(責任)は認められるが、違法性の意識の可能性すらない場合には故意(責任)が阻却されるという見解について考えると、事実的故意と違法性の意識の関係を、あたかも体系上の構成要件該当性と違法性(阻却)の関係と同様に、「原則及び例外」として説明するものと見ることができる。*8構成要件該当性が違法性を原則的に根拠付け、違法性阻却事由のある場合が例外とされるのと同様に、事実的故意が「通常」は責任を根拠付け、違法性の意識の可能性の不存在が例外的に責任を阻却する*9というわけである。
 例えば、上記殺人事例であれば、通常「AがBを殺す」という事実の認識(事実的故意)があれば、それで「この行為は悪い*10」と分かり、違法性の意識を持つことができるが、例外的に、違法性の意識を持つ可能性すらない場合には、責任(ないし故意)が阻却されるという説明である。
 しかし、この説に対して、高山教授は2つの批判をされる。
第一に、「通常」の反対動機形成可能性が、なぜ故意犯としての「本件」の重い責任を根拠付けるのかという疑問*11を提示される。つまり、違法性の意識の可能性がない事案では、初めから違法性の意識の可能性はなかったのである。それは、故意のある「他の」事例で「通常」反対動機の形成が可能であるかどうかとは、関係がない*12
第二の疑問は、違法性の意識の可能性」という同一の対象を、政策的考慮によって二度に分けて判断しうるのか、というものである*13。違法性が阻却されるのは、人が生き返ることによって当該法益侵害ないし社会的逸脱自体が消えてしまうからではなく、正当防衛や緊急避難などの別の根拠が介在するからである。ところが、多数説が「提訴機能」を論じるとき、事実的故意は「通常」違法性の意識を可能にする要件であり、違法性の意識(の可能性)の判断では同じものを本件について「具体的に」検討するにすぎない。一般的な可能性が責任を根拠づけ、具体的な可能性の不存在が責任を阻却するという構成には問題がある。初めから後者を判断すれば、前者は不要となるからである*14
 第二の説明を少し分かりやすく言えば、違法性阻却事由が原則・例外たりうるのは、構成要件該当性があれば、「その構成要件該当性が導く法益侵害状態=違法状態」は既に発生しているにもかかわらず、正当防衛等「別個の違法阻却事由」が存在することによって、違法性が阻却される。これと異なり、違法性の意識の判断は、「故意があれば通常違法性の意識が認められる」じゃあ、「具体的に本件で違法性の意識(の可能性)があるかな」という判断であり、「別個の責任阻却事由」があるわけではない。だから、違法性阻却事由の判断とパラレルに考えるべきではないというものである。
 さらに、提訴機能は、「犯罪事実を認識すれば通常『違法性の意識』が喚起される」と表現される場合もある*15。ここで、違法性の意識は何らかの規範的評価の認識であり、これに対して、事実的故意はそのような規範的評価を含まない、評価の対象の認識となる。しかし、規範的禁止に基づく「反対動機」を導くためには、「規範に関する事実からの推論」が不可欠である。*16。要するに「犯罪事実を認識」即「反対動機」ではなく、「犯罪事実の認識」→「窃盗や殺人は犯罪だという規範に照らして認識した事実を評価」→「こりゃあ悪いことだからやめよう」という判断がある。反対動機形成への過程には必ず「規範に照らした評価」が必要であり、規範的な評価を取り除いた単なる認識だけでは、違法性の意識は導き出されない。そこで、規範的評価を取り除かれた事実的故意からは、規範的評価たる違法性の意識を直接に喚起することはでき*17ないというのが高山教授の批判である。
 

 このように従来の説を全て切り捨てた上で、提訴機能のない故意又は過失が責任の要件となっている理由は、それらの要素が「反対動機形成可能性」を保障するからではなく、行為者の侵害性を示すものだから*18とする。つまり、故意が責任要素となる根拠は、故意犯は自らが「何をなすか」を理解しつつ行為に出た場合であり、そこに行為者の犯罪性が示されているから*19というわけである。たとえば殺人犯は、「自己の所為を違法だと知りえながたから」責任があるのではなく、「人を殺すような行為者だったから」刑罰によって再社会化されなければならないのだということになる*20
 高山説からは、「法に従った動機づけの可能性」は、具体的には、責任能力、適法行為の期待可能性、違法性の意識、という要件において考慮される*21ことになる。
 そして、違法性の意識(の可能性)を事実的故意とは別個の刑事責任の要件とする。その理由は、「個人の行動の自由の保障」に基づくんだとする*22違法性の意識の可能性は、故意・過失によって示された行為者の侵害性「について」の非難可能性を規範的に評価するための要件であり、これがない場合に責任が阻却されるという意味で消極的な要件*23なのである。


 そして、高山説は、伝統的な決定論vs非決定論にも一石を投じる。

 伝統的には、決定論に基づく目的刑論と、非決定論に基づく応報刑論が対立し、刑事責任をよりよく説明しうるのはいずれであるかが争われてきた。しかし、いずれか一方のみによってすべてを理解しようとすること自体、問題をはらむものであったと考えられる。なぜなら、刑罰制度とは、本来的に、非難という手段によって行為者の再社会化を目指すものであり、その目的と手段に応じて複合的性格を有するからである。従って責任の内容もまた二元的に構成されるべきである。故意は予防の観点から、そして違法性の意識は非難可能性の観点から責任論に位置づけられる
p398

 
 この本は、まさに、伝統的な刑法学の枠組みに挑戦する山口厚教授の弟子らしい、痛快で斬新な著作なのである。

まとめ
 高山教授の「故意と違法性の意識」は、故意と違法性の意識の関係についての正確な理解のため、複雑な学説を分類・説明してくれる。
 更に、高山教授自身の痛快な学説が展開されており、まさに「1粒で2度おいしい」作品である*24

*1:http://d.hatena.ne.jp/ronnor/20070321参照

*2:高山加奈子「故意と違法性の意識」p19、以下ページ数は当該書籍のページ数

*3:p20参照

*4:反対動機の形成を基礎付ける内在的要素、p21

*5:p55〜

*6:なお一元説には反対動機の形成は「容易―困難―不可能」という程度を区別しうるにすぎず、解釈論上犯罪事実に応じた責任の具体的な質や量を観念するためには、事実的故意を違法性の意識からは独立の責任要素とする必要があることから、「一元説」は維持しえない。(p397)と批判している

*7:p60

*8:p61

*9:p61

*10:いかなる意味において悪いかは別の問題

*11:p62

*12:p62

*13:p63

*14:p63

*15:p65

*16:p66

*17:p68

*18:p122

*19:p122

*20:p122

*21:p251

*22:この点については、紙幅の都合で説明を省くので、原典に当たっていただきたい。

*23:p398

*24:念のために申し述べておきますが、当サイトは、一応法学サイトです。