アホヲタ元法学部生の日常

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一騎当千の刑法的考察〜闘士達は、みな少年院送り?

一騎当千 (1) (Gum comics)

一騎当千 (1) (Gum comics)

1.一騎当千とは

勾玉に封じられた三国志の英雄達の魂が、2000年の年月を経て蘇った!

爆乳女子高生孫策伯符は、天下統一を目指して戦いの中へと身を投じる。

そんな物語が、「一騎当千」である。





一騎当千』では、大量の負傷者、死者が出ている。主人公の孫策も何度も大怪我をしている。これらの怪我を負わせた闘士達は、みな傷害罪・傷害致死罪・殺人罪になるのだろうか。



2.ダートトライアル事件と危険の引き受け



 ここで、注目すべきは、危険なモータスポーツである「ダートトライアル」についての裁判である。





ダートトライアルというのは、競技専用の非舗装路面をより速く走行することを競うタイムトライアル競技である。非舗装のデコボコ道を超高速で走る以上、事故が発生する危険は当然存在する。





ダートトライアルにおいて事故が起こり、ナビゲーターとして同乗した被害者が死亡したという事件について、裁判所は、運転手に無罪を言い渡した(千葉地判平成7年12月13日判時1565号144頁)。



この場合、被害者は、死ぬことに同意していた訳ではないので、被害者の同意があったから無罪という単純なロジックではない*1





しかし、千葉地裁は、以下のように述べている。




同乗者の側で、ダートトライアル走行の前記危険性についての知識を有しており、技術の向上を目指す運転者が自己の技術の限界に近い、あるいはこれをある程度上回る運転を試みて、暴走、転倒等の一定の危険を冒すことを予見していることもある。また、そのような同乗者には、運転者への助言を通じて一定限度でその危険を制御する機会もある。
 したがって、このような認識、予見等の事情の下で同乗していた者については、運転者が右予見の範囲内にある運転方法をとることを容認した上で(技術と隔絶した運転をしたり、走行上の基本的ルールに反すること−前車との間隔を開けずにスタートして追突、逆走して衝突等−は容認していない。)、それに伴う危険(ダートトライアル走行では死亡の危険も含む)を自己の危険として引き受けたとみることができ、右危険が現実化した事態については違法性の阻却を認める根拠がある。もっとも、そのような同乗者でも、死亡や重大な傷害についての意識は薄いかもしれないが、それはコースや車両に対する信頼から死亡等には至らないと期待しているにすぎず、直接的な原因となる転倒や衝突を予測しているのであれば、死亡等の結果発生の危険をも引き受けたものと認めうる。

千葉地判平成7年12月13日判時1565号144頁



この判決の言いたいことを想像して敷衍するに、世の中には、ボクシング等場合によっては死亡の危険もあり得るような危険なスポーツが存在するのであり、そのスポーツに参加する者は、みな、スポーツをする中で怪我をしたり死亡をする危険があることを理解した(危険を引き受けた)上で参加しているところ、そのスポーツ自体が社会的に認められている以上は、そのスポーツを行う過程で、怪我や死亡事故が発生しても、ルールに則って行動をする中で発生したものである限り、それは社会的に相当と認められるのであって、怪我や死亡事故を発生させた行為者(スポーツ参加者)の刑事責任を追及する必要はないということであろう。





そして、このダートトライアル事件の論理を「一騎当千」の事案に適用すると、被害者が「戦いに身を投じた」時点で、危険を「引き受けていた」と認める余地がある。



3.戦闘は社会的に認められているのか?
問題は、そもそも「戦闘」が「スポーツ」の一種として社会的に認められるかどうか、という問題であるだろう。

確かに、多くの「戦闘」の目的は、勾玉を奪って大闘士大会*2の参加資格を得るためであり、いわば「甲子園出場のための地区予選」のようなものと評する余地もある。そのうえ大闘士大会への出場を希望する闘士達は、お互いに参加資格を奪うために戦闘が生じ得ることを予想している。

また、一部の参加者(夏候惇元譲等)は、戦闘によって破壊された道路や壁を、パテとやすりで丁寧に修復することを「基本」としており(2巻76頁)、このような競技場(聖地)を大切にする心は、他のスポーツとも相通じるところがある。

更に、孫策の家を襲った際*3に、(結果的には、一般人ではなかったものの)「一般人には手を出すな」と指導があったり、太史慈史義と孫策周瑜 の戦いの際*4、揚州学園の生徒が幼女に危害が加わらないように、「公園内立ち入り禁止 座ってもダメ ご迷惑おかけします」という立て札を持って入り口を封鎖する等、闘士以外の安全にも配慮している。





そうすると、

被害者の側で、戦闘の危険性についての知識を有しており、大闘士大会への出場を目指す加害者が勾玉を奪おうと一定の危険な行為を行うことを予見していることもある。また、そのような被害者には、加害者への適時適切な反撃を通じて一定限度でその危険を制御する機会もある。

 したがって、このような認識、予見等の事情の下で同乗していた者については、加害者が右予見の範囲内にある行動をとることを容認した上で(勾玉のランクと隔絶した攻撃をしたり、戦闘の基本的ルールに反することー一般人に手を出すなどーは容認していない。)、それに伴う危険(戦闘では死亡の危険も含む)を自己の危険として引き受けたとみることができ、右危険が現実化した事態については違法性の阻却を認める根拠がある。もっとも、そのような被害者でも、死亡や重大な傷害についての意識は薄いかもしれないが、それは自己の防御力に対する信頼から死亡等には至らないと期待しているにすぎず、直接的な原因となる攻撃を予測しているのであれば、死亡等の結果発生の危険をも引き受けたものと認めうる。


というロジックが使える余地があるようにも思われる。





もっとも、戦闘とスポーツの間には、否定できない違いがある。夏候惇元譲以外はほとんど修復に向けた行為をしておらず、墓石の破壊、建物の破壊等の損害は甚大である。また、公園や河川敷等の封鎖に必要な許可を取っている形跡もない。大闘士大会はさておき「勅」に基づく誅殺は、少人数対大人数の戦いであり、これを「ルールにのっとった正当なもの」と言うことはできないだろう。だからこそ、警察に追われた場合、「俺達スポーツやってるんです、何か?」と正々堂々と胸を張ることができず、蜘蛛の子を散らすように霧散せざるをえないのである。

まとめ

闘士たちの戦いは、違法であり、警察につかまれば、全員少年院送りといわざるを得ない。

もっとも、最強を求める美しい戦いが、警察による検挙で終わるのはあまりにさびしすぎる。

例えば、ルールを明確化し、できれば武器については制限し、原則として1対1で戦うといった方向にもっていくことで、闘士の戦いを「社会上正当なもの」として、合法的なものにすることは可能である。

ぜひ、戦闘をスポーツマンシップに基づくものとするような「勅」を出して頂き、現代に蘇った三国志の闘士たちが、少年院送りの憂いなく、思う存分戦闘ができる環境を作ってもらいたい。

*1:山口厚「刑法」第2版84頁脚注22参照。なお、そもそも、承諾殺人罪があるように、生命は同意によっても処分できない。

*2:学校単位で天下一を決めるトーナメント、3巻138頁参照

*3:10巻82頁

*4:2巻111頁