
- 作者: 八橋一樹
- 出版社/メーカー: ビジネス社
- 発売日: 2007/07
- メディア: 単行本
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裁判員制度の導入により、少なくとも、司法、特に裁判への関心が高まってきたということは事実のようである。裁判を担う法曹三者のうち、「判断者」として、裁判員と一緒に協議をする裁判官。この人が、普段どのように生活を送り、どのように物事を考えて事件を処理し、特に慎重な判断を求められる否認事件でどのようにして結論を下すのか。
以前は、こういうことは、司法修習生、つまり司法試験に受かった人だけが知ることができて、それ以外の人は蚊帳の外であった。そして、それで問題はなかった時代があった。ところが、裁判員制度では、裁判官は、被告人を裁くために一般市民が共に議論する相手である。裁判官の生活や、思考過程の「見える化」の必要性は、過去になく高まっている。
この、「かけ出し裁判官の事件簿」は、2年目の裁判官の著者が、自己の経験を下に、ある否認事件を縦糸、裁判官の日常生活を横糸に、裁判官の生活を淡々と描き出す作品である。
2.推理小説的展開を期待してはダメ
多少推理小説的な筋書きになっているため、推理小説的な展開を期待して読むと、(詳しくはネタばれになるので言えないが)がっかりする可能性がある。
この中で描かれるのは、裁判官が「普通の」否認事件を扱うプロセスであり、名探偵が特殊能力や偶然で真実を解明するプロセスではない。
主人公の裁判官の心の中の言葉として、こんなことが記載されている。
以前、アメリカの刑事ドラマで見たが、衛星写真を使って逃げた犯人を追跡し、居場所を突き止めていた。これが本当の話だったら、(中略)行動をはっきりと証明できるかもしれない。しかし実際には、そんなことは期待できないから、それ以外の証拠で、過去にどんな事実があったのかを推理する必要がある。
(中略)
裁判は「真実追及」の場だ。しかし、ある結論に証拠上の理屈がとおり、それ以外の結論でその理屈が通らない場合、仮にそれが真実と違っても、その結論が裁判での事実だ。裁判官は神様じゃない。普通の人間だ。
だからといて、決して安易な判断はできない。被告人だけではなく、その裁判に関わった人のたちの人生が、多少なりとも変わる可能性が高い。どの裁判も、一期一会。「次」はない。
八橋一樹「かけ出し裁判官の事件簿」212〜214頁より
3.「検察審査会の午後」と比較するのが面白い
この逆をいくのが、「検察審査会の午後」であり、現実の検察審査会では「真実」なんてまず発見できないが、小説の中では、ある意味の「真実」が発見される(そこが、「検察審査会の午後」の面白さでもあるのであるが)。この点は、検察審査会の現実、裁判員の現実 - アニメキャラが行列を作る法律相談所withアホヲタ元法学部生の日常で論じたところである。
フィクションながら、小説としての面白さを追求した「検察審査会の午後」と、淡々と裁判官の実態を描き出す「かけ出し裁判官の事件簿」。二つを比べるのも面白いだろう。
まとめ
よく、「裁判で真実を明らかにする」と言われるが、裁判では、証拠から検察官が主張する(被告人がやったとされる)犯罪事実が、「合理的な疑いを容れない」、つまり、「通常人なら誰でも疑いを差し挟まない程度の真実らし」さ*1を確信できるかだけが問題となる。そこで、例えば「Xが犯人とされていたのに無罪」という判決が下る場合、「Yが犯人なのか、Zが犯人なのか」といった、いわゆる「真相」は明かされないことが多い。また、訴訟法の制約から、裁判官が独自に調査した結果を証拠とすることはできない*2。その意味で、真実発見を期待すると、被害者や裁判員等がフラストレーションが溜まることは否定できない。現行制度の下では、裁判員にとっては、過度の真実発見を期待せず、淡々と証拠から、無罪という合理的な疑いを挟む余地がないと言えるかを判断することが、できる唯一のことである。「かけ出し裁判官の事件簿」は、このようなプロセスを*3具体的な事件を題材にして描き出した作という意味で、裁判員に選ばれた人であれば一読の価値があろう。